まー遊ぶかなー(´ー`)

まー遊ぶかなー




バカでも能なしでもアホでもいいじゃないか?

この世は楽しんだものが勝者だぜ!




世の中のいう素敵なライフスタイル、自分には楽しくないと気づいて。なに言われても自分は自分って割りきったら、人間関係も楽に人生はハッピーに。なんでこんな簡単なこと長らく気づかなかったのか。。。





うろ覚えだけど、前にどこかで見かけた、 

「私のミスを10年後も覚えている人がどれだけいるだろうか。いなさそう。よし、大丈夫。」 

という言葉に気持ちが救われた。

本人が思う以上に、誰もその人の事なんか意識してないし気にもとめてない。 

みんな自分の事だけで精一杯。 

周りの目ばかり気にしてないで、もっと楽に生きようと思った。




人というのは生まれてきていずれ去るもの。ボヤボヤしていたらすぐに死んでしまう。今自分がしたい心が向くことに、いつでも心を喜ばせ、楽しいことを貪欲にやっていったほうがいいと思う

何でも思い切ってやってみることです。どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様、骨となって一生を終わるのだから

ケータイにメモしてる言葉



自分は世界で一番幸せだと言い聞かせてると、ほんとに世界で一番幸せになる。





もう30歳すぎたら適材適所。

無理して苦手な仕事を頑張る必要ないし、自分がやってけると思う分野で頑張るのが良い。 

苦手克服をしていたら、人生が終わる。



不妊で死にたいほど辛いけど、100年したらみんな死んでて子供世代も死んでる。自分の曽祖母も見たことないし、記憶にないしそんなもんで、みんな廃れていく、忘れられていく。そしてそのうち地球が終わったらなーんも関係なくなる、子供いなくてバカにされようが気の毒がられようが明日はどうなるかわからない。と消化するようにしたら楽になってきた。できなきゃできないで楽しんで生きようと思えるようになってきた。




毎日、色んな事があるけど、家帰ってご飯食べて、ある時、ふと生きるってこんなもんか、こういうもんなんだな、って腑に落ちた時があった。 

毎日が楽?ではないけど、気楽な部分は生まれた気がします。結局、苦肉の策で生まれた悟りみたいな感じだった(笑)




正直言って、ものやお金じゃ幸せになれない!! 

お風呂やスーパー銭湯があたしのオアシス!! 

と割り切ったwww





もう何もかもどうでもよくなって会社辞めてきたよ。真面目に働いてたっていい死に方出来るとは限らないし適当に生きるわ。どうしようもなければ死ねばいいんだし。いざって時の為にロープも買ってあるし、辞める時に備えて貯金もたんまりしてあるから取り敢えず貯金で遊びまくるよ。



嫌いな事はしない 

好きな事だけする

バカげてる様で 

結果的には幸を掴む




人生は消耗品 

いつかなくなることが当たり前 

そう思うといろんなことへの執着心が軽くなる

 



昔は将来困らないように、と勉強を頑張りずっと働いていられるよう経験値を積まなきゃ、と努力してきた。だけどそんなことしても誰に褒められる訳でもないし、楽な生活もできてないww 

最低限のことだけやって楽な方楽な方へ向かって生きようと思い始めました。 

頑張ってもどうせ死ぬし、偉人になれるわけでもないし。 

別にいつ死んでもいい。けど6億あるなら生きててもいい。その程度。





毎日なんか辛いってことは

なんか間違ってますよーってサインなんだろな




今までやってた行動を少しずつ変えていってみるかー

興味の範囲を変えてみるかー




はんにゃの金田さん

ズクダンブングンバブルの時の貯金がゼロになったらしい。


時は移ろい行く(´ー`)





今までは働くことによってお金やものを手に入れてきた。

そして働かなくなった時に、どのように生きるか、どのように死ぬかを自ら考えることには意味がある。国の政策や知識人の話に耳を傾けるよりも大切であるように私には思えるのである。




なんで自分だけが、と言う経験は孤独の中で1人考える作業を必要とする。


そのプロセスが各人の個性化につながっている面がある。


悩みに正面から向き合うことによって主体性が生まれるからである。


なんで自分だけが、という切り口で行動することによって、新たな自分を発見できることがあるのだ。


みんなと一緒だと思っていると、自分なりの働き方や生き方を見出すのは難しい。



病気を患うと、気持ちの中で死と直面するので、無意識レベルに落ち込んでいた私に対する恐怖心が意識レベルに上がってくる。今これを考えている自分自身の存在がなくなるとはどういうことなのか。この、決着をつけることができない問いを抱えることが、今までの働き方、生き方を見直すことにつながる。病気以外の挫折や不遇もやはり自分の命の限界を見出す機会になっていると想定される。



その体験が意識を変化させている。



彼は胃がんでもう長くないことを知る。自分は何のために生きてきたのかを自問し始める。30年間無欠勤だった職場を休み、夜の盛り場を彷徨い、キャバレーやダンスホールにも足を踏み入れる。



彼は、余命わずかだと気づくことによって、初めて生きる価値、働く意味を見つけ出す。死を意識することは、自分の人生の持ち時間を把握する究極の形である。


極端に言えば、死と向き合わないと、本当の意味での老いや死に至る準備はできないと言えるかもしれない。人生の後半戦の重要なポイントであるのは言うまでもない。




家を片付けたい

家をめっちゃ片付けたい

家をがっつり片付けたい

家を徹底的に片付けたい

家を圧倒的に片付けたい

家のものほとんどを片付けたい

家を捨てたい

そして家族団欒したい

すべては家が汚いせいなのだ

悔しい悔しい悔しい

そして

苦しい苦しい苦しい






死に向かって 進んでいるのではない 

今をもらって生きているのだ

今ゼロであって当然のわたしが 今生きている

ひき算からたし算の変換

だれがおしえてくれたのでしょう 

あたらしい生命 うれしくて踊っています 

”いのち 日々あらたに