あえてクソゲーに挑戦する

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ドラクエは「強くなることそのものがご褒美」

一応、ローラ姫も竜王もエンディングも遠い目的としてあるのですが、それはオマケ。

このゲームの本質は強くなること。

Levelアップと装備品の充実、ハックアンドスラッシュです。

 

モンスターを倒して経験値や協力なレアアイテムを入手し、キャラを強化してさらに強力なモンスターを倒すというプレイスタイル。

 

ビデオゲームは、褒めることが本質。褒めることがメイン。

 

 

そんなことを言ったって、人生はドラクエと違う。何をしても何をやっても竜王を倒すまで誰も褒めてくれない。

 

 

 

 

人生版ドラクエも、夢をかなえることをいったん忘れて、スキルやステータスを上げることそのものを目的にする。

 

 

 

新しい技術を覚えることや、同じ仕事の時間をどんどん短縮する。健康に関するステータスを上げる。

この人生版ハックアンドスラッシュ、手段と目的を入れ替えることを自己目的的と呼びます。

 

 

 

レベルアップしても成功は保証できませんが、グズのままでいるより、圧倒的にいろんなモノや成功へ手が届きやすくなります。

 

 

 

 

自分で自分を褒めるループ装置として稼働すること。

組織が褒めなくても、親が褒めなくても、充足感の褒めループができます。

 

 

「試したくなる」で自然にスタートを切れます。

「試してみたい」と思うものだったらなんでもいいわけです。

 

新しい技法を覚えたとか、

自分にとっての新しい武器が思想や哲学でもいい。

 

 

 

 

でも、人間だから、その「結果」が無駄になる全ての「過程」に対して生きている間だけ、いろんな意味や価値を勝手に付けていいわけです。

 

 

最終的に無駄になっても、儲けまくっていいし、

最終的に無駄になっても、会社を建て、地球を大事にしてもいいわけです。

 

 

 

 

僕らがスーパーマリオを楽しんだのは、「ピーチ姫を助けました」という結果が欲しかったわけじゃない。

 

目標に向かって進んでいること自体が楽しいゲームだった。

 

 

 

エンディングという「結果」が見たいわけじゃない。どうせ次回作でまたさらわれえるピーチ姫なんてどうでもいい。それでも助けるために冒険するという

その過程にこそ価値があり、そのゲームを遊ぶ「意味」がある。

 

 

人生本当に楽しいのは

「試合が終了した時の結果」が一番ではないんですよ。

 

 

 

ピーチ姫を助けたという「結果」は確かに楽しいかもしれませんが、ギリギリの攻めをかわしている「プレイ中の生きている瞬間」に比べると

その結果が、ピノキオなのか、火の海に落ちたかは

結局二の次三の次なんですよ。

 

自分ができることを、頭脳でも体力でも最大限に駆使して伸ばしている瞬間が最高に充実した「今を生きている」ということ。

 

 

つまり、

「結果」を一切考えず、「過程」に100%集中して今を感じとる。

 

 

 

 

 

クソゲーが「神ゲーと比較して楽しくない」のは、超難易度だったり、チュートリアルも整備されていなかったり、バグがあったり、クリアしてもゴミみたいなエンディングしか用意されて無かったり、やるだけ無駄に感じるからですね。これは楽しくないです。

 

 

そんなクソゲーでも、自分の設定した課題に対して試行錯誤している間は楽しめるんですよ。

 

製作者が用意した以上の自分なりの楽しみ方という縛りプレイは楽しいんですね。

 

クソゲーなんて、今さら誰もやりたくない訳で、超難易度で理不尽なことだらけでやるだけ無駄なんですけど、そんなクソゲーにこそ、クソゲーだからこそ自分からあえて挑戦してクリアを目指すのは楽しいわけです。

 

 

 

クリアできるかどうかはどうでもよくて、チャレンジして試行錯誤してる間が楽しいわけです。

 

 

他人に課題設定されたものを嫌々やっていると人生はクソゲーになる。

 

 

いつの間にか他人の目ばかりに気にして、この歳で、この学歴で、この会社で、平均収入として、こう生きなくてはいけない、この給料でこれだけ成果を出さなくてはいけない。「普通はこうだ」みたいに全部他人の目で人生が課題設定されていると、かなり理不尽なクソゲーですよね。それが全部「誰かとん比較」なんですから。

 

 

 

今ある他人から突きつけられた課題を、「それを上回る課題に自分で書き換えたらいい」わけです。

「あえてクソゲーに挑戦する」つもりで。そうして初めて自分自身の課題設定になります。

 

 

クソゲーをクリアするかどうかはどうでもいいんですよね。このクソゲーは何かしら自分で設定してそれにチャレンジしている間が一番楽しいわけです。結果が失敗か成功か、儲かるか儲からないかはどうでもいいんです。そこに誰との比較もありません。そのチャレンジを楽しんだらそれだけで勝ち組です。

 

 

その試行錯誤を楽しめるなら

それはもう努力ではなくなります。努力する人より、楽しむ人の方が体力や精神力をすり減らさず試行錯誤の量が相対的に増え、チャンスがより多くなり、クリアする可能性は高くなるでしょう。

 

 

 

 

他人や世間の目を気にして、結果ばかり気にしてては、クソゲーを楽しむリスクなんて取れないですね。その価値観だと結果が出ないと不毛になったり、無意味になったりします。

 

 

 

大体、口がうまくて、まっとうな屁理屈こねる奴ほど本人は何もやっていない。それを達成するまでTVもゲームもネットも遮断して、今からさっさと手を動かせ。

 

 

 

人間は自己利益のためにはあまり真剣にならない。

これは多くの人が見落としている重大な真実です。

自己利益は自分にしか関わらない。

「俺はいいよ、そんなの」という投げやりな気分ひとつで人間は努力をやめてしまう。簡単なんです。

 

 

全部自分の仕事や興味に没頭しているから「リア充」なわけです。

 

 

僕たちはそういった、他人に簡単にうんこを投げてくる人たちを軽やかに無視して前に進んで行く強さを持たないといけない。

 

バカだと言われても何ものにもなれないオタクとか言われても、自分が何かを好きになった気持ちをしっかり信じて、前だけを向いて歩いて行こうという事です。

 

僕がこの年齢になって感じるようになったのは、

「自分は何者にもなれないのだ」と知ってから、

本当の「人生」がはじまる、ということなんですよ。

 

彼らはみんな

「何者でもないけれど、自分のやるべきことを、淡々とやっていう人」であり、「それを自分で受け入れている人間」だからなのです。

 

 

求めないこと

自分の考え一つが支持されないだけでも不満なのに

世間が100%支持してくれるものなんてない。

 

 

先のことは予測不可能である以上、今やれることをシンプルにやるべき。

 

 

 

あなたの本当の望みに貪欲であれ。

あなたの求めるものが向こう岸にあるなら、石橋を叩きすぎて渡るような賢い大人になるな。

目を輝かせた愚かな子供のように、まずは今すぐ橋を渡れ。

 

 

試してみたら失敗した。それがどうしたというのだ。

もう一度試せ。もう一度失敗し、よりよく失敗するのだ。

 

学生の頃を思うと、なんであんな小さな世界で小さな失敗を怖がっていたのだろうか。

 

 

 

いかにハズレを引いても楽しむことができるか?という開き直った視点こそ人生を豊かにするかもしれません。

 

 

少しづつ難度が高くも楽しくなることを増やす。できることからちょっとづつ膨らまし、今を生きる。

 

自分は現実こそが仮想なのだ、と気づいてから人生楽しくなりました。

現実というのは、頭の中のイメージである夢のことで、全ては頭の中にあり、現実と呼ばれるものはその一部に過ぎない。