いつの頃からか、こんなに安心した日常を忘れてしまっていたと思う。
なんのために、あくせくと働いているのか。
休むことは悪いことじゃない。
毎日10分でも、この時間をとれば、私たちの生活はもっと満足度か高まって向上するんじゃないか。
のび太はサボって昼寝をしているわけじゃない。
なぜならのび太は寝てはいない。
寝ているときの表情ではないからだ。
人生に満足し、毎日に感謝し、この時間がとれる日常を味わっているのだ。
だからのび太は寝ていない。
人生において何か大切なものを失っていないか?
キミは満足して人生を味わっているか?
一日中、へばりついているパソコンのモニター下でのび太が私に問うてくる。
土管とセットでのご購入をお勧めします。
この世に生を受けたこと、この世で何でもできること、この世に何でもあることを精一杯、楽しみましょう。
うまく言えなくて申し訳ないのだけど、、。
「自分のことばかり考えずに、自分が出来ることを見つける」っていうのは
結局ね。学校の先生や親が言う「自分の幸せを考えて生きる」のって案外に難しいと思う。
自分を大切にしようという、その「心」のせいで傷つくことが多くて、本当に苦しい。
だから、生きていくための手段として、何かひとつでも自分の命を何かのために使おう(それは対象が人でなくても良い)という自己犠牲ではなくて、自分が生きてる価値や意味のベクトルを自分方向にむけない考え方をするというか、その一歩ができれば生きる意味が本当に変わる。
今の世の中「他者のため生きる」ことが悪で、自己犠牲なんて悪でそんな人生に意味はなく、損していてそれなら死んだほうがマシという考え方が普通の価値観になっていることが、逆説的に生きづらくしているというか。
やっぱりうまくいえないなー。
死にたい消えたいっていう思いは、現状を打破したいという願いから来るものなんだって。
って、そうだよ逃げ出して、楽になりたいよ。
引きこもることは、私にとっては「選択の結果」になるわけです。自分の意志で家にこもる道を選んだわけであり、私のような集団の中にいることにより生じるリスクを避け、メンタルが安定する選択をしてきた、というわけです。
私のような「内向的」な人間が、引きこもりという選択肢をえらびつづけてきたということ。
その結果として、私は40代になるまで独身で実家暮らしをしているのですが、その結果として人生で遭遇したかもしれない悩みや苦しみを避けることができたという点で、本能に従って生きてきたわけです。
「私は引きこもりです」と言ったら、「あなた大丈夫?」とか「いい年して情けない」というような批判も受けますが、私は私なりに必死に自分を守ってきたと思っています。
自分の弱い部分がはっきりとわかっているので、人との距離の取り方に苦心しながらも今日まで、生き抜いて来れました。
私自身も年を重ねたことによって、私と出会う年少の方々が私にある程度のリスペクトを示してくださるようになったことが、若いころと明確に違う点です。
今私はとても充実していて、それまでの引きこもり生活は無駄ではなかったと思っているのです。
社交辞令も使わないし 参加したくないものには参加しない。
自分が損することは引き受けないし断る。
嫌われるかもなんて顔色伺ってても仕方ない、頑張ろうと嫌われる時はあるよ、他人は他人。その人と生きてきた道も価値観違うんだもん
死にたいって思う時がよくあるのだけど、死のうとはしないし、きっとできない。
たぶん、死にたい、のではなくて、逃げたい、のだろうな。
楽をしたい、怠けたい、楽しいと思いたい、そんなとこだろうな。
適切な食事や休暇、趣味や運動などで「気」を養っていかないと、生きるエネルギーとしての「気」は消耗していく一方。元気がなくなると、病を患い、いずれ死に至ることになります。