「人生が詰んでしまった」と思っても、ちょっとよそ見をしたり、生活のパターンを変えたりするだけで、詰んでなかった自分に出会う可能性がある。
恋人も友人もいなくても、自分が描いていたような理想の人生を送れなかったとしても、絶望することはない。自分の境遇を嘆く暇があるなら、自分が惨めに感じない環境作りを模索し続ければいいわけだ。
いかにそのままで気持ちよく生きられるかを考えよう。周囲と違っている一人者の自分でも、自由で幸せな人生は送れる。
お金は暮らせるだけあればいい。花も生き物も愛でられる心の余裕の方が大事。40過ぎても悪くない。真剣に楽しんでゆくことに目覚めたから。
まわりの人が自分より
恵まれていると感じられて、
気持ちが沈む時期が
誰にでもあると思いますが、
私の場合は
全員に負けました!と
1度開き直ることで
吹っ切れて正直になれました。
今は負けるための
カードが揃ってきています。
すぐに競争から降りる
準備をしています。
「おれたちゃ、おれたち。それがなにか?」 「私なんかいまの自分でぜんぜん気にならない」 というようなお気楽な人がいちばんいいのです。
「お金以外の価値」を多く持っている人ほど、お金と交換できる
人生においては、たったひとつでも「本当に味わえるもの」があれば、充実できます。たったひとつの奥深さがあるだけで、人はそれを楽しんで生きられるのです。そしてそれら「本当に味わえるもの」とは、農耕的な価値観から見ると、全て非効率なもの、お金などさして必要ではないものなのです。
実際に退職してセミリタイア生活を5年ほど実体験してわかったのは、 健康が最大の財産 であることだった。
「お金は健康な間に使わないと損だな」と思うようになっている。 つまり「円預金が増えたら負けかな」、と。 会社を退職後、最近は新年を迎えるたびに、金融資産(貯蓄)の数字よりも「人生の残り時間」が気になるようになった。
「何をすればいいのか」と焦ってしまうのは、サラリーマン時代に「何をすれば評価が上がるか(得するか)」と考えていた時代の「負の遺産」だ。 何もすることがなければ、何もしないでほしい。 ダラダラ、ブラブラと生きればいい。
セミリタイア生活を6年近くやってきて感じたのは「お金以上に健康が大事」だということだ。
未来を見ない方が、視野は広がる で、重要なのは、その方が現実的に動けた、ということなんですよね。
うまいものを食って好きなことをして、適当に今を楽しく過ごすほうが幸せだ。
老人にとっていちばん大事なのは、自分の今の生活を楽しむことであり、気に食わないことにいちいち目くじらを立てることではない。人づきあいは大事でも、だからといって必死になる必要などなく、片手間にやるくらいのつもりで適当にやっていればいいのである。 「これだけ」「これしか」という考え方は、実は相当にリスクが高い。
花を咲かせるために毒を出す植物がありますが、人も花を咲かせるために自衛は必要です。本当に無理なときは「できません」と真顔で言う勇気こそが、私は必要だと思いますよ。