人生に飽きた。何回鬼を追い払って、桜に元気をもらって、星に願いを込めて、はく息の白さに驚かなくてはいけないのか。もう飽きたよ

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どうせ、人々が支え合って、社会が発展していくだけ。

 


私は、想像力が豊かで、自分のことを客観視できて、頭の回転も早い。そういう性格だと、何でも自分の中で解決してしまうし、折り合いをつけてしまう。「しまう」と書いたのは、自分では困っているからだ。

 


社会人になって20年ちょっと生きてきたら、社会の仕組みが分かってしまう。それが、しんどい。

 


「これを人に話したら、相手の人はこう返事してくれるだろう」

「これをしたら相手に気を使わせてしまう。」

「これは、自分で調べたら済むことだ。」

「弱音吐いたって何も変わらない。」

「仕事ができる人に仕事は回ってくるし、だからその分お金ももらえる。」

「人は経験によって学ぶ。」

「褒められたり怒られなくても、他人による自分への評価は常に上がったり下がったりしている。」

 


社会の仕組みを知ってしまったら、もう生きるモチベーションがなくなってしまった。どうせ、人々が支え合って、社会が発展していくだけ。誰かが、「おばあちゃんになるまで早送りしてほしい」と書いていた。その通りだなぁと思った。

 


人生に飽きた。何回鬼を追い払って、桜に元気をもらって、星に願いを込めて、はく息の白さに驚かなくてはいけないのか。もう飽きたよ。仕事頑張っても、いい人と結婚して、子どもと出会って、その子どもの成長を喜んで、仕事にもいっそうやりがいを感じて、惜しまれながら退職して、ゆっくりと老後をすごして、死んでいって、でも自分の生きた証はあって、家族や後輩によって自分という存在が残っていって、結果的に社会が発展するだけだ。

 


このように冷めた考え方をするのも、若気の至りで尖っているからなんだろう。

 


だけど、もういい。地球飽きた。死にたい。

 


いろんなパパゲーノの経験談を聞いて、共感できるところがあり、涙が止まらなかった。漠然といだいていた「生きるのめんどくさい」は、誤魔化しているだけで、本当は、私は「死にたい」という思いと共に生きていると気がつけた。そのくせ、いっちょ前に仕事に打ち込み、趣味ももっている。そんな自分を客観視してしまったが最後、今自分に「悲劇のヒロインぶんなやクソが。」と思ってしまう。

 


そして、この投稿で初めて「死にたい」って文字にして打てた。打てちゃった。まだ、声に出したことはない。

 

 

 

苦労をする、将来を思い描く、ポジティブに、強い心をなど。そこまで追い込まないと生きていかれないなら、人間は死んだ方がいいと思う。

 


本棚の名前の通り、本を作る仕事を20年以上やってきて、何か得るものがあったか、うつ病と入院の機会だけだ。

 


はうようにして仕事に行き、とてもではないが「自己啓発」などできない。死んだ顔で面接に行っても当然、現職から逃げたいことはバレる。

 


何度も自殺未遂をして、入院して、薬を毎日飲んで、それでも家庭を持った。なんでだろう。死にたいのに、子供を持った。死にたいなら、そんな世界に人を増やすのが間違ってたのかなと、矛盾していることはわかっています。

 


具合のいい時。それは自分も前向きなとき。その時に家庭を持ち、家を持ち。だけどその裏で死にそうなくらいに辛い毎日。

 


ヨーロッパに住んでいました。冬は長いしくらい。だから春になると、外に出る。私も冬。たまに来る春に、行動する。春に家庭を持った。春に子供が産まれた。

 


「起伏があるのか」といえばそうでしょうし、みな多かれ少なかれ、そうある。だけど死にたい。楽しいこと考えている人が信じられない。悪いのではなく、私には理解できないのです。

 


いま、24:54です。もう「明日」ですが起きたら死んでいてほしい。なんにも夢がない。

 


辛いよ。助けてほしい。

 

 

 

 


養父からの暴言、暴力、性的接触。実母のギャンブル依存。

そんな頃にクラスの仲間が自殺した。当時小学6年生だった私にはそんな選択肢があるのだとハッとさせられた思いでした。

それからはどうやれば自殺できるのか、誰にも見つからない、迷惑をかけずに死ぬにはどうすれば…そんな事ばかり考える毎日でした。

 


でも、アニメの音楽やセリフなどが耳に残り、カウンセラーの先生に話を聞いてもらう事で自分とその他への境界が作れた気がします。その前までは、なんとなく他人と自分の区別がつかず、世間の一般は自分にも当てはまるはずだし、自分と他人はどこかで同じだと思い込んでそのギャップがただ辛かったです。人は人の数だけ違う。違ってもいい。違うのが当たり前と思えてからは自分の思いに素直に生きていこうと思えました。

 

 

 

 


隣の住人が自殺をして亡くなりました。

日頃特に気を止めていなかったのですが、その日の夜中私が帰って来る時ベランダ越しで目が合いました。

虫の知らせかなにか私は隣の人に飲みに行こうと誘おうと思ったのですが、冷静さが勝ち話しかけることすら出来ませんでした。

その日の朝彼は亡くなっていました。

警察の聴取から最後に彼と会ったのはわたしだそうです。

私があの時声をかけていれればと毎晩後悔をしています。

隣の貴方からすると私など知り合いのひとりにも入っていなかったでしょうが、一人暮らしのワンルーム薄い壁から聞こえるギターの音、歌う声、大きめのいびき、私の中では生きていく生活音の大切な1部でした。それが無くなった今、私は生活の一部がぽっかり穴が空いているような気持ちです。

死にたいと考えていてこの文章を読んだ貴方。

あなたが知らないところで貴方は人の人生に深く関わってくれているのです。私はこれを読んでくれたあなたがこの世から居なくなってしまったら凄く悲しいです。そして凄く悔しいです。

生きていて欲しいのです。

私の気持ちの押しつけだとは思いますが、ここまで読んで頂きありがとうございます。

少しでも気持ちが和らいでいただけると、などはおこがましいかもしれませんが、私はそうなってくれると願いたいです。

日々あなたが生きる道はなかったのかと考えさせられます。

 

 

 

あとどれぐらい生きているのだろうと考えると辛い。生きているということはこれほどまでにありがたいことのはずなのに、自分自身はただただ情けなく、常に孤独と向き合っている。ひとびとは順番に自分のもとを去っていくし、こちらから追いかけていく余裕もない。毎日はとにかく時間との戦いで、食事も睡眠も十分にはとれない。それでも自分のやりたいことからはほど遠く、のこりの人生で達成できる気がしない。世界はこれからもっともっともっともっと辛くなっていくだろうから、このあたりで人生をギブアップするのもありなのではないかと考えてしまう。