私は見栄やつまらないプライドで、何でもかんでも抱え込もうとしてきました。 手放したあとに感じたことですが、私が後生大事に抱えていたものたちは、特に何も必要のないものだったのです。 放っておくと、人は自然と何でもかんでも抱えてしまいます。 それが本当に大事なことかどうかも考えずに。
この世の中のシステムはとても大きく強く、残酷に回っています。それらに太刀打ちすることは命の無駄遣いです。 だったら、そういう「力」「システム」「権力」から軽やかに離脱した方が幸せに暮らせるということを歌っていると私は感じました。
心がポキッと折れて潰れてしまう前に、ポジティブにしなかやに会社や社会をトンズラするべきなのです。
「おれたちゃ、おれたち。それがなにか?」 「私なんかいまの自分でぜんぜん気にならない」 というようなお気楽な人がいちばんいいのです。
もし世間や知人の「圧」に負けそうになっても、「おれはおれでいーもんねー」と笑い飛ばしませんか!
よく「その人に超えられる試練しか与えられない」と言われるが、本当にその通り。どん底でギリギリのところまで落ちても、何かしら助けてくれる要素が現れ、辛いながらも乗り越えていけるようになっている。
「変ですよ」と言われることに心地よささえ感じるほど「自分」を解放したとたん、生きるのが楽になり、個性が磨かれ、輝く自分になれる。
一人ひとり違って当たり前なのに、そこを同じようにしているのはつらくない?そう思います。 「自分らしくないと思う」ということは、自分らしさを知っているということです。そこを活かさないで自分って何だろう? と。 せっかく自分に生まれてきたのだから、自分らしさをもっと磨いていこう。そう考えたとき、「変って思われないように」ではなく、もう変と思われた方がいい。自分から「私、変なの」とにっこりと笑って言ったほうがいいと私は伝えています。 それは一人ひとりの個性はすばらしいものだと認めようということでもあるからです。
私の言う「変人」は、この世界を、地域を、家庭を変えていく人。「今までと同じでいいの?」と問いかけをしてくれる人です。 まずは自分が変わって、変わったままの自分で生きやすくなって楽しそうだったら、周りの人たちも「そういうふうにしててもいいんだ」となって自然と許可が出せるようになります。
東京の自宅でぬくぬく過ごしていた娘が、軽トラを買って、大きな古民家の空き家を借りて、一人暮らしをしているのです。野菜も作れば、ニワトリなどをしめて、自分でさばいて鍋にしたりもするそうです。
人生って、すべてをありのままに受け入れ、自分にやってくるもの、宇宙がプレゼントしてくれるものを断らずに素直に受け取っていくと、ずっと楽しくてワクワクして、しかも思いもよらない素敵なことがどんどん起こってくるよね、という話になったのです
人生のコツ、生き方の大切なルールとして、「抵抗しないこと」というルールがあげられています。起こってくること、宇宙があなたに差し出すことに、抵抗してはいけない、それを素直に受け入れなさい、すると人生はとても穏やかで楽で、しかも生き生きしたものになる
自分も無理して幸せに生きようとか考えるより、マイペースにダラダラ生きて適当な年齢で死にたいと考えています。
でも周りの大人達はそんな生き方を勿体ない人生、底辺の人生と言ったり、若い内は色々な事を経験するべきと言ってくるので自分の価値観は普通じゃないんだなと日々考え込んでいます。
もういっそ「お前はこの世に必要とされてねえ人間なんだよ!」と切り捨てられた方が楽に生きられるんじゃないかと思うようになりました。
誰かに必要とされたり期待されるからこそ生きることが面倒に感じます。
何にも考えないって本当に大事だなと思った!
病むことが無くなった