「皆で一緒になって、どんよりしていても仕方が無いから、どうせだったら楽しくした方が良いのでは?」
とりあえず口角を上げて、ニッコリ笑うんです。何だったら、お笑いの動画やギャグ漫画を観てもいいです。とにかく笑顔でいれば、人は常にドバドバで……もとい、幸せでいられます。究極的な話しをしますと、人は死ぬまでに何回ドバドバを起こせたかです。ドバドバを起こすのに、非引きこもり、引きこもりは関係ありません。この世に生まれたときに、私たちに与えられたギフトです。
私が手帳で管理していたのは、予定ではなく、感情。
あなたの脳にとって大切なのは、夢が叶うことではなく夢が叶った感情を味わうこと。 楽しい、うれしい、ワクワクという感情を味わうことで、幸せだと感じます。
隙間時間を、やってみたいことでデコれるから。 これをやらなきゃとか、こんなことを書いても、できないからダメとかではないのです。 ウィークリーページの予定が入っていない隙間時間に、やってみたいことを書いて、ニヤニヤ、ムフッと楽しんでいます。遊んでいる感覚です。
仕事をしているときは、やってみたいことを連想させる写真を貼った宝地図のページや、楽しかった思い出や自分が好きなものの写真が貼ってあるアイ・ラブページを見て、一瞬でムフッと気分を上げています。 宝地図手帳のおかげで、いつでも機嫌良くすごせます。 やらねばならないとか、やらなきゃと気負わずに、できなくてもいいを前提で書いていく手帳。 楽しくてワクワクして、無限の可能性がある手帳。
以前は、手帳はあまり好きではありませんでした。 手帳に書いてあることは、やらなきゃいけないことばかり。見るたびに、今日も終わらなかったと思い、タスクに追い詰められている感じでした。
手帳に予定だけではなく、できたらいいなと思っていることを書いていいというのが、驚きでした。 やることリストではなく、「できたらいいなリスト100」という、「できたらいいな」という言葉も優しくていいですね。
私は見栄やつまらないプライドで、何でもかんでも抱え込もうとしてきました。 手放したあとに感じたことですが、私が後生大事に抱えていたものたちは、特に何も必要のないものだったのです。 放っておくと、人は自然と何でもかんでも抱えてしまいます。 それが本当に大事なことかどうかも考えずに。
この世の中のシステムはとても大きく強く、残酷に回っています。それらに太刀打ちすることは命の無駄遣いです。 だったら、そういう「力」「システム」「権力」から軽やかに離脱した方が幸せに暮らせるということを歌っていると私は感じました。
毎日、はあっとため息をついて暮らすより、自分というがんばり屋のキャラの看板を下ろしてしまった方が、どんだけ心が安らかになることか。
私は最近、よく思うのです。 人生って、長くて、ときどき永遠に続くとまですら、勘違いしがちですが、実は生きているこのいましか、人生ではないのです。 いまが苦しかったら、その人生は台無し。いま、ため息をついていたら、その人生は大失敗。
心がポキッと折れて潰れてしまう前に、ポジティブにしなかやに会社や社会をトンズラするべきなのです。
自分の思い通りに生きることって、結局、「競争」に「勝つ」ことでしょう? 這いずり回って、お金を稼ぎ、もらったお金で消費を競い、お宝アイテムや鉄板の思い出をSNSでマウンティングして、ほんの一〇分程度の満足感を得る、そういうことでしょう?
ほんとうにこのサイクルの中で一生を終えて幸せなんでしょうか。
結局はモノ自体には価値はないのではないでしょうか。 こちらサイドの「認識」の問題です。 だからこっちの「認識」さえ、ちょこっと書き換えてしまえば、わりとハッピーな状況は作り出せるのです。
「おれたちゃ、おれたち。それがなにか?」 「私なんかいまの自分でぜんぜん気にならない」 というようなお気楽な人がいちばんいいのです。
もし世間や知人の「圧」に負けそうになっても、「おれはおれでいーもんねー」と笑い飛ばしませんか!
自分で自分を適度に落としておく、汚しておくことで、人生はかなり楽になります。
「所有する」という考え方はもう過去のものになりつつあります。 もともと人間なんて、丸裸で生まれてきて、丸裸になってあの世にいくものです。「所有している」というのは、錯覚です。すべては神様からの借り物なんです。