火 浄化 信仰

火のエネルギーは、活力を司ります。
直感力や想像力を授け、邪念を燃やし浄化する力を持っています。
新しいことを始めるときの一歩を踏み出す後押しをし、
最後までやり遂げる気力と体力を与えてくれるでしょう。

 

 

 

手のひらはエネルギーが出入りする場所です。

人は手のひらを炎に向けてかざします。
寒いときの焚き火などはか らだを温めるために行っている行動のように見えますが、
これは、人が火のエネルギーを得るために無意識にとる行動です。

密教のお護摩で、お札を火にかざすのも同じこと。
火の力をお札に転写しています
。神聖な火の儀式は体内にある邪気を燃やし、浄化してくれます。

手を火にかざし、 浄化されるイメージを。

今持っているネガティブな思いを 燃やし、新たな炎のエネルギーを得られます。

 

 

 

一人で静かに線香花火に火を灯します。

少しずつ膨らんでいく炎の塊から、小さな火花が飛び散る様子を眺めていると、
瞑想状態になり、魂の深い部分まで浄化の力が届きます。

自分の心と静かに向かい合いながら、
先祖や大切な人を思いながら心が光で満たされていくのをイメージします

 

 

 

その火が自分の中にある負の感情(邪気)を燃やして、頭の上から黒い煙になって外に抜けていくイメージをします。

 

 

 

人ってね、エネルギーの大きいものに引き寄せられるんですよ。

 

 

 

まずは自分が語れ。自分の火が燃え上がっていたら、いつかちゃんと飛び火する。

 

 

 

彼らは、自然を崇拝する文化をもっていたため、自然、植物、大地、空気、動物、水、風、火など、地球に存在するものすべてを崇拝していたといわれています。
これらにはスピリットが宿り、調和しながら生活することが、彼らにとって「生きる」ことそのものであったのです。

 

 

 


人々の暮らしに欠かせない火は万物を浄化する神聖なものとして古来より尊ばれてきました。
火を扱う、かまど(台所)は家庭・会社の中心で、かまど(台所)が賑わえば、家庭・会社が繁栄すると言われています。

 

 

 

護摩供養法などがうみだされたのも、火中に投じた供物を火天が神のもとへ運んでくれるとし、火天を天上の神々と地上の人間を結ぶ使者と考えていたからだと思われます。

 

 

 

火天崇拝は、もともとはヒンドゥー教で信仰されていたもので、功徳を受けることを目的として、天に向かい火を焚くものでした。火天が仏教にとり入れられてからは、煩悩を焼き尽くす神となり、さらに護法神(ごほうしん)として八方天や十二天の一尊に加えられ、東南方を守護することになります。

 

 

 

混迷する世俗にも似た闇夜は、灯明によって照らされる。そのことから灯明はそのまま悟りの智慧(ちえ)に喩えられ、やがて単なる照明具の意味を超えて、灯火そのものが祈りの対象となっていく。神社仏閣に数多くの石灯籠が奉納されるのも、照明のみを目的とはしないことを物語っている

 

 

 

 


世のかたすみに、ほんの少しの光でいい。生きている間にささやかな何かを照らすことができたのなら…。最澄はそのような人こそ“国の宝”なのだという。光を生み出す者たちは、いつも暗闇の中で、人知れず大切なものを照らし続けているのである。

 

 

 

お線香の香りは、お線香をあげる人の心と体や、その場を清めてくれます。お線香をあげることにより、俗世に生きる人の身と心を清めてから、故人に挨拶ができるのです。

 

 

 

お線香に火をつけると立ち上る煙は、あの世とこの世をつなぐ橋渡しになるともいわれています。そのため、お線香をあげる行為には、煙を通じて仏様と心をつなげ、対話をするという意味もあります。

 

 

 

ロウソクの火は、神仏に供える火として「灯明(とうみょう)」と呼ばれます。 仏壇に置かれている2本のうちの一方を「自灯明(じとうみょう)」、もう一方を「方灯明(ほうとうみょう)」を表しています。

自灯明は自分自身を頼りにすること、法灯明は真理(本当に正しいこと)を頼りにすることで、仏教の開祖であるブッダの遺言として受け継がれています。

 

 

 

不浄なものや穢れを祓い(はらい)、浄めて(きよめて)くれます ロウソクの火で、私たちの周りにある不浄を浄め、お仏壇の周りを明るくすることで、煩悩の闇に光を当ててくれます。

 

 

 

あの世とこの世の架け橋になってくれます ご先祖様が道に迷うことなく、
現世に帰って来られるように場所を教えることで、私たちとご先祖様を繋いでくれます。
また、ロウソクの灯りで私たちの姿をご先祖様によく見てもらうことができます。