貢献について考えるなら、最も身近な人たちへのそれを真っ先に考えるべきだということだ。
命を生み、育て、生かし、すべての存在を調和させ、循環させる
衣食住を整えるというのは、自分の内と外のいのちを整えること。
心が荒れてしまいますと、物をかわいがることができず、物を無視するようになります。そうすると、家は、無気力・無関心なあきらめのムードがただよい、家のエネルギーも落ちてしまいます。
「日々、自分だけの心地よさに意識を向けて過ごす」ということ。 心地よさを感じていれば、いつも元気でいられます。 心地よさを感じていれば、心地よい現実がやってきます。
できない「イエス」は言わないこと。もっと簡単に言えば「まずNOと言ってしまう」こと。
仕事に制限が設定されている。
集中力を散漫にしていない。
一事に集中している。
1日にできる仕事量を把握している。
毎日、1日分の仕事を終わらせている。
自分自身と仕事との間に距離を置いている
次々に来る仕事を入れる「ブッファー・ゾーン」を設け、そこで一度整理している。
距離を置く事、仕事を整理すること。
心外無別法
楽しく持つこと
気持ちよく手放すこと
最後を考えること
軽薄でありたい。行くかどうか迷ってる場所は行ってから考えるとか、買うかどうか迷ってるものは買ってから考えるとか、誘っても断られそうな人については断られてから考えるとか、死んでも生きても今のところ大した意味はないからとりあえずは生きとくかとか
今あるものを楽しみ
今あるもので楽しみ
実は、
今のままで幸せなんだ
今のままで幸せを感じていいんだ
お金は天下の回りものっていうけど、
『回りもの』っていう仕組み、システムを回す『鍵』は
ただ単純に『使う』という行為(ハウツー)じゃなくて、
『安心』という心だったんだ。
『大丈夫』という心だったんだ。
『最善の人生』は、あなたが定義していい
何かをやるから価値が生じるのではなく、すでに価値があるから次の行動(ステージ)に更なる価値が生まれるのです。
平凡な状態で豊かさを感じることができますし、実際そういう人は極めて豊かな人生を歩んでいます。
『やらなきゃ』とは足りていない部分に視点をあてているからこそ出てくる概念です。ですのですでに有る事実に視点を向ければ『やる必要が無い』ということに気付きます。
最も効率よく幸せを得るには、幸福な時間を意図的に多くすることが近道です。
「お金が欲しい」「もっと欲しい」の
「原因」は、というと
この方が書いてくれたように
要は
「安心したい」んですね。
安心したいということは
「基本、不安」なんです。
その「不安」を作り出す
「大前提」が変わらない限り
ひとは
いくらお金があっても、
不安は続くのです。
人が楽しむことを辞めたとき、それは成功が終わったともいえます。楽しさや心の豊かさが失われてまで何かを求めることには、初めから限界があります。
やりたいこととは、つまるところただの自己表現です。人は自己表現をすることで周囲の人との共感を得、幸福を感じるいきものです。
多くの人が緊張や制限を手放す、つまり『あきらめる』と、不思議なことに、自分にとって最も良い方向に向かい出すのです。 目的は、『あきらめる』ことで肩の荷を下ろすことですが、コツは、『今の自分のままで一生が終わってもいいや』と本気で思いきることです。
夢中になって進んでいると、そのときやっていること自体が道しるべの役割にもなっていて、その先に、さらによりしっくりとくる何かを見つけることができます。
そもそも『気になる』というのは、あなたの中の深いところで求めているものなので、あなたが気になるのであれば、誰が何と言おうと、あなたの選択に間違いはありません。 ですのでご自分の感覚だけを信じてください。
苦手だから壁にぶつかることができ、その壁を乗り越える方法を考え、卓越した知恵を創造するからです。
「もちろん。きみはそのままでいいんだ。でも、この先、きみが自然と『やりたい』って思うようになれば、そのときになって初めて、チャレンジすればいいんだよ。もし仮に、やりたいなんて思うことが一生なかったのなら、それはそれでいい。大切なのは、きみが今、楽しいかどうかなんだよ」
あなたが現在どのような道にいても、それはあなたにとってかけがえの無い時間であり、無価値なものは、どこにもないということです。
『行動力』という観念は無駄な縛りでしかありません。
覚悟』をすると、大抵の不安を緩和することができます。
すべての規制を廃止したら、歯車は常にフリー状態なので燃料がつづく限り、人はどこまでも行動しつづけます。
「人生の意味」の正体とは、「外部に働きかけてつながることで、自分の定義を確認できること」だ、と言っていいと思います。 この「外部とのつながり」が希薄になると、「自分はなぜ生きているのか」と問い、この実感が強くなると、「生きているのは楽しい」と感じるのです。
非常に「主観的」であるのが、「人生の意味」の基本的な性格です。自分がつながる「なにか」が、社会的にどう評価されており、客観的にどういうものであるか、ということは「人生の意味」を実感するうえで、それほど重要ではないのです。
私たちが外部世界に働きかけ、「つながっている」と「主観的」に確信できたとき、私たちは「人生の意味」を感じることができる、と言えます。
しかし、たとえばそうした学びや活動が一段落して終わってしまい、「特にすることがない」というような「空白期」になってしばらくすると、途端にこの問いがむくむくと湧き上がってくるのです。
自分はその人々に貢献しようと、大きな願いをもってエネルギーを注いだ」というこちら側からの働きかけによる「つながり感」が得られていないと、「生きる意味」にならないのです。