古いステージでの楽しみ方が抜け落ち 新しいステージでの楽しみ方に変わる為にスペースを用意している時間だから 美味しい紅茶でも淹れてみましょうか

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適当に手を抜いた、やっつけ仕事で人に認められても、ほとんど「生きる意味」を実感することができません。  逆に、わたしを認め、ほめてくれる人がただ一人だけだったとしても、その仕事に熱心にこだわり、思いを込め、やり抜いたという思いがあるなら、「生きる意味」「つながり感」をそこから得ることができ、そのことで「自分は何者か」の定義を確認することができるのです。

 

 

 

 「人生の意味」は、あくまで「主観的」なものであり、「客観的に状況がどうであるか。つながる対象は社会的に高評価を得ているものか」ということは、必ずしも重要ではないのです。

 

 

 

 


「自分自身がその事柄にどのように取り組んだのか」ということが、「つながり感」を得ることができるかどうかを決めるのです。

 

 

 

 


自分が働きかけ、つながる対象がどんなものであれ、それに対して真摯に、心を込め、エネルギーを注いで取り組んだ、という主観的な確信が「つながり感」となり、「自分の定義」を確認し、「人生の意味」を実感させるものとなるのです。

 

 

 

 

 

 

「人生の意味」を感じるために必要なのは、「外部世界にあるなにか素晴らしいものを獲得すること」よりも、「外部世界の課題に取り組む、自分自身の働きの姿勢」ということになります。  私たちの外部につながるときの姿勢が、真摯・真剣・熱意・犠牲を厭わない思い・心からの感謝・熱い祈りと願いの込められた・心からの愛情と配慮に満ちたものであるほど、私たちはその働きから「つながり感」を得ることができ、それを通して「人生の意味」を実感することができるのです。

 

 

 

 

 

 

私たちが「自分が生きている意味ってなんだろう」と問いかけるときは、私たちが外部世界と関わろうとするエネルギーが低下しているか、課題に取り組むのをあきらめてしまっており、外部とつながる姿勢に力がなくなってしまっているときなのです。

 

 

 

私たちが本当にその活動自体を喜びとすることができるのは、そこに私たち自身が「愛された」経験があるからです。愛されたことを、愛をもってお返ししていくのが、私たちの人生の根本原理なのです。

 

 

 

これまでの歩みもまた自分の大切な一部であると受容して、更にこれまでの道を極め、深化させていく

 

 

 

 


「私なりの道」「私なりの真理」「私なりの世界観」「私なりの独自性」といった、他者と異なっている自分自身のオリジナルで主体的な選択や思考といったものを信じて個性化の歩みを深め、極めていく、というところに中年期の歩みがあるのではないでしょうか。

 

 

 

 


 「小さな自分」に満足することが出来ず、「おおいなる自分」を過度に求めてしまうというこうしたあり方とは、どこかで決別しなくてはなりません。

 

 

 

自分の「影」の「ガス抜き」をしてあげる、と言ってもいいかもしれません。「影」がもっている、自分が選択しなかった要素を、自分のうちに改めて受け入れていくのです。

 

 

 

 


自分の「影」がある程度満足するように、自分が捨ててきたものを拾い上げて、自分のうちに取り入れるのです。それによって「影」も満足して、その働きは沈静化していきます。

 

 

 

小さな「できること」を重ねているときは、それほど「思い煩う」ことがありません。無心になって取り組めることが多いのです。

 

 

 

 


 無心に箒を動かす。無心に書く。無心に片づける。無心に動く。   こうした小さな働きを「無心にする」ことで、心理的なエネルギーが充満してきます。無心になにかをしているとき、心はそれまでのデータを整理し、新しい活力を生み、創造的に働き続けています。

 

 

 

家族と幸せに暮らすというなら、なにも事業で成功したり、有名にならなくてもいいのです。また、安心や平安を得るためには、成功や名誉といったものはむしろ邪魔になることが多いのです。

 

 

 

一旦「するべきこと」から頭を離して、心を空っぽにして「できること」を黙々とするのが近道でしょう。

 

 

 

 


私たちは、「するべきこと」の領域で大きな仕事を成し遂げれば、自分の人生が前進すると考えがちです。しかし、本当に現実的な成果になるのは、「できること」の蓄積から生まれるものなのです。

 

 

 

 


自分の存在の底にいる「影」の要求を認めて、これを人生に取り入れていくまで、葛藤は続くことになります。

 

 

 

 


これらの「問題」や「困難」は、自分がこれまで目を閉ざしてきた「対極価値」に気づくようにとの、うながしなのです。あたかも、中年の危機は次のような神のメッセージだとも言えます。   「あなたの人生はバランスが失われている。あなたの価値観のゆえにあなたが切り捨てたさまざまな価値あるものが、あなたの人生のうちに入りたがっている。あなたがそれらの価値を認め、受け入れ、肯定するまで、これらの価値はあなたの注意を引くために、あなたの心を打ち続けるだろう」

 

 

 

 


 中年の危機の状態になっているということは、「それまでの価値観や物事のとらえ方では今後の人生を生きていくことができない」という危険信号が点灯しているということです。

 

 

 

 


「人の意見」と自分の意見が合致しない部分の割合も、自分の意見が個性化すればするほど、大きくなっていきます。「自分自身の意見」が確立されるということは、「人の意見」との違いやコントラストが強くなっていくこともでもあるのです。「自分の意見」を強く持っている人ほど、多くの点で「人の意見」に賛同しにくくなり、精神的な孤独と独自性は深まっていくと言えます。

 

 

 

 


年齢を重ねるということは、「人との違い」が大きくなることであり、それは人と比較することができない「唯一の自分」へと成長していくことにほかなりません。

 

 

 

 


 個性化の道を進むということは、人と自分が「違う」ことが善いことである、という考えを抱くことです。自分自身の境地を求め、自分自身の理論や世界観を突き詰めていくなら、人との違いが大きいほど、個性化しているからです。

 

 

 

自分自身の境地を求め、自分自身の世界観と認識を築いていくためには、圧力を振り切って前へと進んでいく必要があります。自分の人生はただ一度だけなのですから、人からの同調圧力に屈して個性化の道を歩まないなら、人生を棒に振ることになってしまいます。

 

 

 

 


「自分は一人ぼっちになってしまってもいいのだ。わかってもらえなくてもいいのだ。本来の自分自身になるのだ」という形で、孤独を引き受ける決意をするのです。

 

 

 

 


中年期の危機を通して、私たちは結局自分が一人であること、本来の自分になっていく以外に道はないこと、自分の境地を求めることに喜びを見出す以外に、将来はないことを少しずつ自覚していくのです。

 

 

 

 


 「自分なりの境地を求める」というのは、「紙を一日に一枚重ねる」というような、一見するとなんでもないような、地味なことを続けることにほかならないのです。地味でぱっとしないかもしれませんが、平凡なものでも積み重なると、途方もなく大きなものになっていくのです。

 

 

 

 


だれにも評価されないとしても、「それが自分の道だ」とわきまえて、続けていくのです。それがやがて、「自分なりの境地」という花へとつながっていくのです。   「ほかの人にできないことで、自分にはこれができる」という、自分の得意技や得意分野を、まっすぐに掘り下げていくことで、オンリーワンな、自分独自の歩みが可能になってくるのです。

 

 

 

 


です。自分の命が無意味に消えていくのではなく、この流れに参与し、この流れを作った一部であることを自覚することにより、自分の命と死が無駄ではないことを知ることができるのではないでしょうか。たとえ自分の死のあとにも、自分が参加したこの命の流れは、自分の働きを引き継いで流れていってくれるのです。このような大きなものの一部として自分が生かされている、と知ることで、自分の死と向き合うことができるのではないかと思います。

 

 

 

 


「いつ死んでもいい」と思えるくらいに、目の前の働きに力を尽くしているなら、その延長線上にある自分の死は、「自分のベストの死」であるほかはなくなります。「自分が力を尽くして取り組んだ結果、訪れた自分の死」であるとするなら、そこに後悔はなく、受容できるものではないでしょうか。

 

 

 

 


今目の前に与えられている課題は、神からあなたに託された使命であると考えてみませんか。今、自分が手を伸ばせばすることができる仕事を、今日のうちになし続けること、それも力を尽くしてすることが、「自分の死」を受容することにおおいにつながっているのです。「今日」の延長にある「自分の死」だからです。その「今日」に真摯に取り組むことがないなら、死を受け入れることも不可能です。

 


古いステージでの楽しみ方が抜け落ち 新しいステージでの楽しみ方に変わる為にスペースを用意している時間だから 美味しい紅茶でも淹れてみましょうか