こうなったら死ぬまで適当に生きる。どうせ死ぬんだから無駄な苦労はしたくない。

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中学生の頃、学校でのいじめ、親のネグレクト、兄からの暴力、いつもお腹がすいていて、ガリガリで、自分で自分も愛せなくて、毎日の様に死にたいと思っていた日々の中で、方丈記に出会いました。

 


学校も古典の授業も好きじゃなかったけど、『仮の宿り』という言葉と考え方に、本当に救われました。

 


今の自分があるのも、この方丈記の思想のおかげだと思っています。

 


あれから何十年とたって、今では世捨て人の様な一人の暮らしに、愛着を感じながら心豊かに生きています。

 


生きることが窮屈な世の中、少しでも気持ちを軽く出来る作品に、みんながふれられるといいですね。

 


鴨長明の「方丈記」の序文、川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず.から始まる見事なこの世の移り変わりを伝える文章がなぜ書けたのかがずっと疑問でした。

河合神社や鴨長明方丈址を訪ねてみましたが、世捨て人が的確に社会や人間を描写できることが不思議でした。

アバタローさんの解説で、父親の死による世間の冷たい仕打ちや後鳥羽上皇の心変わりにより、世の中に絶望することで、結果的に冷静に世の中を観る眼が養われたと理解できました。

方丈記に書かれている天変地異の時の人々の行動や不安は、1000年前も情報が発達した今もほとんど変わりはないと思います。今を生きる我々も本当に大切なことに時間を使い、生きることの意味を考えて、刹那的な喜びや雑事に時間を使うことは程々にしておくことを学ばせていただきました。

 


人は、

自分が手間暇かけたものを、

めちゃくちゃ過大評価してしまう生き物

 


お客さんはもう、

モノで溢れかえった世の中に

飽き飽きしてんねん。

 


お客さんが本当に欲しいもんは、
そのものやない。

もっと別の、キラキラした何かやねん。

 


自分という「キャラ」を知る

みんな自分をわかっていない

生きづらさに対処するには、まず徹底的に「自分を知る」必要がある。

 


いっぱい、いっぱいな自分”を

そろそろラクにしてあげよう――

 

 

 

●幸福ほど主観的なものはありません。

 幸福は、外在的な環境や以上に、その人の頭と心が左右するものです。

 あっさり言えば、ほとんどのことが「気のせい」だということです。

 自らの頭と心で自分の価値基準を内省し、それを自分の言葉で獲得できたら、

 その時点で自動的に幸福です。

 「これが幸福だ」と自分で言語化できている状態、これこそが幸福に他なりません。

 


●副交感神経を活性化させるには、意識的に呼吸を深くする。

 鼻から四秒くらい吸って、口から八秒くらいまで吐く。

 これなら、気づいたときにいつでもできる。

 最近はジムのサウナに入った後のジャクジーの中でこれをやっています。

 


●人と比較しない人は人で自分は自分。

 自分の欲求がゆっくりと満たされればそれでいい。

 品のある人というのは、ある意味で空間が狭いのだと思います。

 あっさり言うと「足るを知る」です。

 欲望を野放しにしておくとキリがありません。

 なりふりを大切に、足るを知る。

 これば品格だというのが僕の結論です。

 


●年を取って時間ができると、趣味やボランティアに生きがいを見つけようという話になりがちです。

 誰もがそういう方向に生きがいを見つけられるわけではありません。

 テリーさん(テリー伊藤)は何もしない人生も大いにアリだと言っています。

 何もしないで生きていける人ほど、精神力が強い。

 他の人にはわからない深い喜びや達成感に満ち溢れている。

 


「絶対悲観主義」とは、「自分の思い通りにうまくいくことなんて、この世の中にはひとつもない」という前提で仕事をすることで、期待感やプレッシャーなく仕事ができ、失敗しても(絶対悲観主義では、ほとんど失敗することが大前提)落ち込まないで過ごすための処世術である。

 


長い人生の中で、一方は好循環を、他方は悪循環を起こすので、どんどん差が開いていく。

 


この差の根幹にあるのは何か。

 


楠木建さんは、知性と教養だと考えている。

 


自分を客観視する。世の中での自分を俯瞰して見る。具体的なことごとの背後にあるものを抽象化して本質をつかむ。ようするに知性。何よりも自分の経験と頭と言葉で獲得した価値基準を持ち、精神的な自立と自律を保てているか。つまり、教養。

 


受け身でいたほうが人生うまくいく
自分で何かしようとするとロクなことない
与えられたことをソツなくこなす
これに尽きる

 
こうなったら死ぬまで適当に生きる。どうせ死ぬんだから無駄な苦労はしたくない。