ぼくが自分に言い聞かせているのは何か思いついたら、絶対にやった方がいい。
お客さんや周りの人に尽くせ。結果よりもトライしたという意気込みに人は心動かされることがあるから。
生きているうちにできることは何だってやってしまおう。
別にいつでも死ねるんだから、いろいろやってみようと思ってだらだら生きています。
結局この人生なんて一回こっきりだし社会的地位とか求めていないなら、バカの行っていることは正しいんだよな。
幸せのために収入があるのに、幸せを対価にして収入を得てどうするん?
20代のころの貯金なんて人生の面白さに変換されなかったら死に金。
20代で10万でできる経験は30代になると100万払わないとできない。
これは繰り返して言っておきたい。
他人と比べるからダメなんだよ。せっかくこの世に生まれんだから楽しい趣味見つけてエンジョイすればいい。
「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない。
いったいどうして人は他者からの承認を求めるのか?多くの場合それは、
賞罰教育の影響なのです。
アドラーは適切な行動をとったら、ほめてもらえる。不適切な行動をとったら罰せられる。
こうした賞罰による教育を厳しく批判した。
ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない、
罰する人がいなければ、不適切な行動をとる。
という誤ったライフスタイルです。
他者の期待など、満たす必要はない。
ユダヤ教
自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか。と
われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。
その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?
他者はあなたの期待を満たすために生きているのではない。
わたしのなすべきことは、自らの人生に嘘をつくことなく、自分の課題に立ち向かうことなのだ。
まずは「これは誰の課題なのか?」を考えましょう。
他者の課題には介入せず、自分の課題には誰一人として介入させない。
どうしてそんな不自由な生き方を選んでいるのか?
あなたは承認欲求という言葉を使っていますが、要するに誰からも嫌われたくないのでしょう。
傾向性
自由とは、他者から嫌われることである。
あなたが誰かに嫌われているということ。
それはあなたが自由を行使し、自由に生きる証であり、自らの方針に従って生きていることのしるしなのです。
自由を行使したければ、そこにはコストが伴います。そして対人関係における自由のコストとは他者から嫌われることなのです。
他者にどう思われるかよりも先に自分がどうあるかを貫きたい。
幸せになる勇気には「嫌われる勇気」も含まれます。その勇気を持ち得たとき、あなたの対人関係は一気に軽いものへと変わるでしょう。
咀嚼して、消化するまでには時間も必要になるはずです。
対人関係のカードは常に「わたし」が握っていたのです。
承認欲求に縛られていると、対人関係のカードはいつまでも他者の手に握られたままになります。