暑すぎ、溶けそう。脳はもう溶けたな

僕自身のプロセスを振り返ると面白いからやっていることが、自然に学びにつながっていた。
ハードル競技も読書も
「遊びのなかに始まって」いたのだ。


たぶん教養とは、そうした自由な境地にたどり着くまでの、言ってみれば基礎力のようなものだと思う。土台を形作って作動させるための、エンジンやそれを動かすガソリンのようなものだ。

「身につく」というのは、つまり「忘れている」ということだ。


ぼく自身のコンプレックスが、一つ外れた瞬間だった。
それからは自分の意見を言ってみよう。本を読んでみよう。新しい可能性を考えてみようと
コンプレックスを少しずつ外していった。


知識やノウハウを蓄積した土台の上に「思考」や「創造」の力を接ぎ木しなければ、伸びてはいけない。
「許せ、手放せ、気にするな、考えるな、感じろ」


どんな世界にしたいか、どんな人生を生きたいか。仕事を考えるのではなく、世界観を考える。どんな仕事であれ目指す社会の実現には貢献できる。

 

できるならやるというその打算が人を夢中から冷まさせる。手法は打算的になっていい。


使命感とは、周囲の期待に応えることではなく、自分の役割に気づくこと。私ではなく私という存在を全体から眺める。

大事なのは自分を認めること。そしてその自分の扱い方を覚えること。

努力とは自分の延長線上に向けられる時に効果がある。


期待を裏切らないのではなくて裏切る勇気がない。他人の評価が高いのではなくて他人の評価を無視する勇気がない。みんなに好かれているのではなくて嫌われる勇気がない。

社会に認められている訳ではなくて本来の自分でいる勇気がない。

個性は予定調和や空気を破る。個性は人の心をざわつかせる。だから個性を認めるとは他人と自分は違うと分かること。

 


評価されるのはいつも自分の好きなことに従っている人。みんなが期待する人になろうとしない人。世の中が評価する人生ではなく自分がやりたい人生を。

 

がっかりさせようと全部ぶっちゃけたら、むしろがっかりされずに近くなる人がいる。
その人は人に褒められるために生きていない人だと思う。そういう人といると自分が出せるようになる。
自分をさらけ出せない人は夢中になれない。

だから必死で演じる。私がなりたい姿よりも、世の中に欲される姿を。