「結果」を出すことに価値があるのはただの「機械」である。

基本的に学校も会社も、がんばった「過程」なんかどうでもよく、機械的な「結果」だけが最終的な評価となります。


「結果」のみを求めるなら、人間らしさをなくし、より機械のように生きたほうがリスクが減り、安定し効率的です。


これは逆説的に、
人間だけが、無駄で、くだらない過程にい、価値や意味を見いだすことができるということ。良質な機械仕上げの大量生産の「結果」ではなく、無駄で人間くさい非効率に時間をかけた「過程」やデザインにこそ

一部の人間が生産的な価値を見い出したりもすますが、それが金銭的に売れない作品や景色だろうが、笑いだろうが、ある種の人にとっては全く生産的でない大きな「意味」を持ちます。

「結果」の行き着く先には何の「意味」も「価値」もない。

お金を儲けまくった先に何があるのか?

宇宙の先に何があるのか?

人はどこから来て何処へ行くのか?

その結果に意味も価値もありません。


人間はいつか死ぬんです。法人である会社もいつか死にます。

地球もいずれ太陽に飲み込まれて死にますし

宇宙だって死ぬと言われています。

 

そこで生産し続けることの「結果」に


何の「価値」も「意味」もないわけです。


でも人間だからこそ、その「結果」が無駄になるすべての「過程」に対して生きているだけ、

いろんな意味や価値を勝手につけていいわけです。

 

僕らがスーパーマリオを楽しんだのは、「ピーチ姫を助けました」という結果がほしかったわけじゃない。


目的に向かって進んでいること自体が楽しいゲームだった。

 

エンディングという「結果」が見たいわけじゃない。
どうせ次回作でまたさらわれるピーチ姫なんて、言ってしまえばどうでもいい。


もちろんなんの生産性もない。


それでも助けるために冒険するという、その「過程」にこそ「価値」があり、
そのゲームを遊ぶ、「意味」がある。


人間の最大の幸福感、「充実している」「生きている」とは、

自分の能力が最大限発揮されているその「瞬間」のことである。


人生本当に楽しいのは、「試合が終了した時の結果」が一番ではないんですよ。
プレイ中に相手の動きを読みきった時や、自分がこれまで以上のプレイに達したとき

それを仕込んでいる最中に想像している「結果が出る前のわくわく感」が一番たのしい。


ピーチ姫を助けたいという「結果」は確かに嬉しいのかもしれませんが、
ギリギリの攻めをかわしている「プレイ中に生きている瞬間」に比べると、
その結果が、クリボーなのか、火の海に落ちたかは
結局二の次、三の次なんですよ。


自分でできることを、頭脳でも体力でも最大限に駆使して伸ばしている瞬間が最高に充実した「今を生きている」ということ。


つまり
「結果」を一切考えず、「過程」に100%集中して今を感じとる。という状態が、

Don't think feel!

結果というのは、成功だけじゃなく、失敗も含みますが、

失敗したらどうしよう。

こんなことをしても、もしかして無駄なんじゃないか

なんて一切考えないで目の前の集中している人のほうがピーチ姫にたどりつけるだけのこと。


本当の「生きている」充実感は、、自分が今どこのステージなのか、借金しているとか、
人間関係のストレスとかは関係なく、いかにそれをクリアするか、または弱みを強みに変えるか、
そのステージに「本気で集中する」だけのことなので、自分が人生というゲームのどこのステージにいたとしても、

今しかない人生を本気で生きているだけで、どんな目の前の今も一番充実するんだから
もう「丸儲け」

この丸儲けには「パンツ一枚の結果」もなく、
「過程」そのものを指しているのが、本当の意味ではないかと思うのです。