人生は朝露の如し


 初めてインドを訪れたとき、最も衝撃を受けたのはガンジス河の川辺で見た光景でした。インド人の大多数が信仰するヒンドゥー教では、聖なる河とされているガンジス河に毎朝沐浴し、対岸からのぼる太陽に掌を合わせるということが古くから行われている。私たち旅行者は、小さなボートに乗ってその様子を見学させていただくわけですが、沐浴をする場の隣には火葬場があって、積み上げた薪の上に遺体を乗せ、白い煙をあげながら焼かれていくのを家族がじっと見つめているという姿を何度も目にしました。生まれた以上、誰しも死を避けられない人生を生きているわけですが、そのことを目の前に突きつけられたような気がして、忘れられない体験となりました。

 人生は朝露の如し

 この言葉は、古代中国の歴史書に由来するものです。「人の一生は、草の葉に宿った朝露が日の光りに当たると一瞬のうちに消えてしまうように、もろくはかないものだ」と解すれば、「諸行無常」という仏教の教えにも通じるように思われますが、仏教が強調してきた無常観は、はかなさを嘆くだけのものではないのです。

 お通夜や葬式の際に、本願寺の第八代・蓮如上人が信者に宛てて書かれた手紙を拝読することが習わしになっています。その中の一つで「白骨の御文」と呼ばれるものが読まれ、その中身は

 それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。(中略)われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしずくすえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。

 とあります。同じような文脈で、別の箇所には「つらつら人間のあだなる体を案ずるに、生あるものは必ず死に帰し、盛んなるものはついに衰うるなり」とか、「人間はただ電光朝露の夢幻のあいだのたのしみぞかし」とも述べられています。
 しかし、蓮如上人は、どうせ死ぬのだから人生は無意味だと言われているのではありません。死を避けられない人生であるからこそ、この命がどこから来てどこへ行くのかという問題を解決しなければ、人の一生はついに空しく終わるほかないという自覚をうながしておられるのです。

 現代の日本の社会状況を眺めていると、死が見えない時代になったなということを痛感します。厚生労働省の統計によると、昭和二十五年までは、病院で亡くなるのは10%ほどで、九割の人が家で亡くなっていたとされています。それが平成6年になると、自宅で亡くなる人の割合が初めて20%を切り、現代ではほとんどの人が病院で息を引き取っているということです。その結果、日常の生活の中で人の死に直面するということは、稀なことになってしまいました。それは幸福なことなのでしょうか?

 

 フランスの哲学者のジャンケレヴィッチは、人間の死ということについて、三人称の死、二人称の死、そして一人称の死という違いがあるといっています。三人称とは、私に関係のない一般的な人という意味で、どこかの誰かが死ぬ、あるいは人間とは死ぬものである、というに、自分とは関わりのない問題として死を考えている段階ということです。これに対して、二人称の死とは、私がいつも「あなた」と読んでいる親しい人、大切な人の死ということです。人は死ぬものであるという抽象化された知識と、愛する人を失うという痛切なs体験とは、全く別なものです。そして、最も深刻でありながら自覚し難いのが一人称の死、つまり他でもない時分自身の死ではないでしょうか。


 今までは 人のことだと思うたに 俺が死ぬとは、こいつはたまらん


 これは蜀山人と呼ばれた江戸天明期の文人、大田なんぼの辞世と伝えられている狂歌です。表現はいささか乱暴ですが、人の死を自分の問題として受け止めることができたとき、空しく終わらない人生への探求が始まることを心に入れておきたいものです。  

 

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