日々時久を勤むべきなり
浄土真宗の僧侶でもあり、長年小学校の教育者として知られた東井よしお先生の詩に、「目がさめてみたら」と題する作品があります。
目がさめてみたら
生きていた
死なずに
生きていた
生きるための
一切の努力をなげすてて
眠りこけていたわたしであったのに
目がさめてみたら
生きていた
劫初以来
一度もなかった
まっさらな朝のどまんなかに
生きていた
いや
生かされていた
昨夜ぐっすりと寝込んでいた私が、今朝目をさますことができたことは、本当は不思議なこと、有り難いことであるはずなのに、それを当然だとしか思えないのが私たちです。東井先生は、おそらく毎朝目を覚ますたびに、「ああ、今日も生きている、今日もいのちをいただいた!」と驚き、感動をもって目を覚ましておられたのでしょう。
やさしい言葉が並ぶ中に、「劫初以来」という表現が目を引きます。
「劫初以来」とは、時間の始まりという意味ですが、千年や万年よりもっと遙かな、天文学的な昔にこの世界が始まったという考えを表す言葉です。今、自分に与えられた今日という一日は、何百億年、何千億とも知れない宇宙の時の流れの中で、不思議にも与えられたかけがえのない一日であるという感動が込められていることを味わいたいと思います。
なんでもない日に雲ひとつ
中国唐代末期に活躍された雲門禅師(864~949)の言葉に「日々是好日」というものがあります。
「日々是好日」とは、「毎日楽しいことばかりで結構だ」というような意味ではないでしょう。「吉日」とか「厄日」とか、、私たちは日そのものに吉凶があるように勘違いをしがちです。しかし、良い日と悪い日を分けているのは自分の身勝手なモノサシに過ぎないのです。自分にとって都合のよい日を吉日と考え、都合の悪いことが起きないように祈るような生き方にとらわれている限り、本当の安らぎは得られません。
どんなことが起きようとも、それをそのままいただいて、今日なすべきことを精一杯勤めるよりほかに道はないのです。なぜなら、私たちは昨日と今日と明日が並んでいるかのように思いがちですが、本当は昨日も今日も明日も私の思いの中にあるだけで、私が実際に生きているのは今日という一日、今という時間しかないのですから。
念仏詩人として知られた栄一さんの作品に、次のような詩があります。
日々のいろんな出来事は
この永劫の海の 寄せる波 どの波も
何かしみじみ尊くて
ここにも「永劫」という言葉が出ています。それは途方もない永い時間、永遠ともいうべき時間を表す言葉です。今日という一日は、その永遠の時から与えられたものだと、栄一さんは受け止めておられるのでしょう。そのように受け止めたとき、思い通りになることもならないことも、「なにかしみじみ尊い」という心境が開けてくるのではないでしょうか。