自分の死を誰かに使われたり、いいように遊ばれたくない。自殺はそういうことを「オールOK」というサインになってしまう。 僕も、あなたも、幸せになる権利はもっているんだから。

細部までやると、現実的に違いが出てくる。
クオリティの差は細部に宿る。

 

 

ぼくは今、よく「自然体ですね!」
「無理してないのにうまくいっているんですね!」と言われます。
それは、やめる力を身につけたからです。
自分が無理だと感じることは手放し、自分らしいと感じること、
自然にできることを選択できるようになりました。

 

 


あきらめるべきことは上手にあきらめて、じたばたしないことをよしとするのです。簡単にあきらめていいわけではありませんが、自分の力の限界がくれば、より価値の高いものを守るために降りるのは悪いことではありません。人生と命を守るために、この世のあらゆることを、降りる選択肢にしておくべきです。この世のことをすべてあきらめてしまって、一度身軽になるのはけっして悪いことではないと思います。それは人生そのものを降りることでは絶対ありません。

 

 


この世で一時的に敗者になっても、別の道が必ずあるからです。逃れの道は必ずあります。敗者には敗者なりの自分を生かす道があります。前進、飛躍だけが人生ではありません。後退、どん底もまた人生です。失敗する、負ける、窮する、傷つく、面子が潰れる、あきらめる・・・・そうしたことは人生の一コマであって、人生のすべてではないのです。

 

 


人が死にたいと思うのは、苦しいから、悲しいから、辛いから、疲れたからなのではなく、その苦しみや悲しみから逃げ出したいだけなのではないでしょうか。
 そうです。逃げ出してもいいのです。人生には逃げ出していい時があります。逃げる場所があるからです。

 

 


自前で、努力の必要がなく、持続可能な幸せを見つけたいと思うのです。

 

 

「人生を降りる」とは、社会的成功や他人との競争を離れて、自分に合った持続可能な幸せを自分で発見していくことだと思うのです。

 

 


諦めていないと、人は頑張りますから。無駄なのに。

 

 

出世するのは無理かも」と思った人は、職場での評価にこだわるより早めに別の人生の楽しみ方を覚えたほうが楽しく生きられるはずです。

 

 

自分にはなれない職業がある、手に入れられない生活がある」と理解したとしても、人生全部を諦めて絶望する必要は全くありません。むしろそれは早めに「進むべき道を現実的に選べる」ということを意味します。

 

 


「諦めていないと、人は頑張る」というのが僕は特に印象に残っています。

 

 

「人生を降りる」という言葉を僕なりに言い換えると、
「社会的幸せから解放される」ということになります。

 


“あるべき論からの離脱”これが、人生のテーマだと、最近はつくづく思います。
いかに世間から逃れるか、如何に“あるべき論”から解放されるか。人間の人生はそれとの戦いだと思う。“自由”、“精神の自由”を得ようと思うと、「いい人」「できる人」「思いやりのある人」ではいられない。

 

 


僕らが死んだあと、僕らを苦しめた人々や見て見ぬふりをして人たちは、僕らの苦しみなんて知らずに「どんどん幸福」になっていく。好きな人と愛をはぐくみ、これから訪れる素晴らしい時代を感じて、僕らのことは何も考えずに天寿を真っ当してしまう。

 

 

悪人に人権や幸福があるなら、
僕らには「どんな幸福も享受する」権利があると。

 

 

それだけは忘れたくないし、自分の死を誰かに使われたり、いいように遊ばれたくない。自殺はそういうことを「オールOK」というサインになってしまう。

 


僕も、あなたも、幸せになる権利はもっているんだから。

 


仕事は、「問題を自分で作る」競技なのです。