恐怖や不安から酸素は減る。無駄に酸素は減らさないが吉。

追い込まれている時、自分が縛られているものを、人は見る事ができません。
だからそういう状態で、いくら考えても答えは出ません。

そういう時は少し休んで、離れることです。遠くから見れば自分を縛っているものが何か見える。それには心の余裕と距離が必要なんです。

 

一つ覚えておいてほしいのは、人生はなんとかなるということです。そして悩んでいることも後から振り返ると、大したことはないと思えたりするものです。
やめてもいいし、続けてもいいし、休んでもいい。

自分に許可を与えて、離れたところからもう一度何がしたかったのかを
考える時間が大事。


みんないびつで、いびつだけどそれがどうした、というふてぶてしさがある。


馬が枯れ草を食べている。自分も馬みたいになりたいとオオカミが草を食べている。オオカミは自分が何に生まれついたのかを忘れている。馬は馬を極めたから輝いた。


他人に嫌われることは罪でも何でもない。
“真面目なアスリート”はここに罪の意識を感じ、自分らしさを捨ててしまう。
少数派にすぎない批判的な意見を過剰に取り入れ、どこから見ても問題ない、丸い特徴のない存在になっていく。


“たかが”だから結果を気にせず気楽に全力になれる。
自分が自分のままでいるだけで、ある一定の確率で人には嫌われる。
嫌われることを先延ばしにしない。嫌われるべき時には嫌われること。
人に嫌われることを恐れて自分の可能性を捨てぬこと。

 


「何かのために走ること」の限界


もっと自分の内側から自然に湧き出てくる純粋な気持ちで走りたい。
訳もなく、ただ走りたい。という気持ちがなかったら、この先戦い続けられない。


その頃だった。
「たかが陸上じゃないか」

「べつにハードルで勝ってもたいした意味はない」

「ただ楽しいから走っているんだ」

一つ一つ「自分」という意識を消していくことを試みた。

 

〈忘我〉状態になることへのヒントがある。
こどもが遊んでいるのを見ると、何も考えず、遊びの世界に没頭しきっている。

自分が遊んでいるということすら忘れてしまって、ただワクワク楽しい時だけをすごしている。そんな時間があっという間に通り過ぎていく。

遊びの「面白さ」は、どんな分析もどんな理論的解釈も受け付けない。


自意識から解き放たれて、勝手に体が動いている。


「期待に応えなきゃ」
「みんなが応援してくれているから」
「失敗したらどうしよう」
といった雑念がまったくない時間。


「やるしかない」という開き直りと
「今できることをやる」というシンプルな集中ができていて、

自分自身を何かに委ねてしまえる感覚。
意図やコントロールとはちょっと別次元の状態だ。

 

僕の仮説では、余計なことを考えて不安な気分になればなるほど、脳が余計に酸素を消費してしまうのではないかと思う。


だから、

今この瞬間だけに夢中になることができれば、呼吸は一定になり

余計な酸素を使わずに済み、


結果的に身体は安定する。

 

怖くてその先を想像したりすると、素潜りだけでなく、たいていの物事はうまくいかなくなる。不安な状態では良い結果が出ない。

 


当たり前のようだが、反対に自分が楽しい状態を保てると、余計な酸素は消費せず、身体もいいパフォーマンスができる。

 


その姿は「自分らしくそのまま行けばいいよ」というノリに近い

もし、本当に苦しくなった時は、天を仰いで祈るだけ。なんともシンプルなのだ。

大実験の中で、小さな実験を繰り返した。

トライ&エラーを繰り返し、変わったことをちょっとやってみようと実験を繰り返した。

 

努力を実現するために、人間に先天的に与えられた能力、それが「遊び」なのだ。


遊びの領域のなかでは日常生活の掟や習慣はもはや何の効力にもなっていない。
われわれは別の存在になっているのだし、別のやり方でやっているのだ。

面白いと思ってやりさえすれば続く。
続きさえすれば身体が覚え、それなりの技術レベルに到達することができる。


「理解してほしい」という思いと同時に、
「自分はここにいるんだ」という自己証明を。


コミュニケーションは常に変化していく。予測がつかない。

変化にしなやかに対応できること自体、うれしいし、おもしろい。そして楽しい。

水溜りを飛び越える最中に、、

多分、何かをすることの醍醐味は、「成功すること」の中にあるのではなく、
成功しようが、失敗しようが、結果には関係ないところで
「俺はやった」と思える清々しさの中にある。

私は多分、過去にふたつとても大きな覚悟を決めた。
一つ目は「死んでもいい」という覚悟
二つ目は「ひとりでもいい」という覚悟
になる。

いくら失敗したって、人の記憶は曖昧なもの。
最終的に成功すれば「成功者」として上書きされるんです。


こいつら生き残る実力があったんだな。
頑張っているんだなと思ってくれる。
だから、そう思ってもらえるまで、同じことをやり続けなくてはいけない。
「耐える」って意味では、「時代待ち」みたいなところもあるかもしれません。


私たちが何かの結果を導き出そうとすると、かえって力を削がれることになります。
逆に自分の行いに対する、いかなる結果も成果も望まない時に、そして
その行為に全ての力を集中するときに、正しい結果が生まれてくるのです。
結果がどうなるのかを気にしないでください。


一度きりの人生だ。ひとりの自分である。自分が自分のまま咲き誇ろう。

他人の生き方にああだこうだと口に出すより、
自分の日々に集中すること。周囲に期待することをやめた瞬間から
みんな幸せになるような気がする。


何もしていない自分には価値があないという考え方は幻想だ。自分の価値を自分の功績で補おうとすると、多分つぶれる。


最高の概念は「遊ぶ」だと思う。
がんばる必要もないし、良い子を演じる必要もないし
表現する必要もない。他人を蹴落とす必要もない。
必死とか努力とか、我慢とか、そういう類いのものでもない。

肩の力を抜いた状態で、「どれだけ遊び抜けるか」が試されている遊技場として
世界は再認識される。

 

生き延びようと思うから迷う。
自己ベストを更新することに集中している印象があり、そこがいい。

みんな同じであることの安心は、自分であることの喜びを剥奪する。


どうにもできない過去や未来に縛られて、現在を犠牲にしてはならない。
あるのはこの瞬間だけであり、目の前の今日という一日を思う煩うことなく
確実に生き抜くこと。明日のことは明日にお任せして、
昨日のことは昨日に任せて、
他人のことは他人に任せて、
自分の命を生きること。


生存ポイント日々加点。

一回死ぬことで開く扉がある。
何かがあるよりも、何かが無くなってからのほうが面白い目に遭遇することができる。

あんまり先のことを考えても、足がすくむだけなら考えないで動いたほうがいいぜ。
恋愛にしろ、仕事にしろ、自分の見える範囲にとらわれないほうがいいぜ。

世の中は広いんだぜ。地元がダメなら県外へ、
国がダメなら、世界へ。
どこかで誰かがきっと必要としてくれる。
自分を信じろ。そして、裏切るな。
自分の人生だ。楽しく生きようぜ。

 

もしかしたら失敗してしまうかもしれないけれど
いいじゃん。やり続けたってことが大事。

あきらめる理由を探しているのか?
そうでないなら自分が納得できるまでやり続けろ。
世間は成し遂げた人には喝采を送る。
ぼくがこれから戦っていくのは、
ありそうでない、なさそうである
幻想的な
「世間体」なんだと実感した。


年齢とかにこだわらずに、なりふり構わず他人の利益を最大化することに尽力すれば
自然と周りが持ち上げてくれる。


大事なのは勇気を持って行動すること。いずれは死んで無になるんだから、
失敗なんて恐れているのは馬鹿馬鹿しい。

価値ある人間にならなければいけないと悪戦苦闘を重ねたけれど、ある日を境に
「無価値で何が悪い」と開き直るようになってから楽になった。

 

 

より上手く転ぼう!

  ★より上手くころぼう。

成功という執着や今という執着から離れることで、人生が軽くなる。

オプションを持って「あえて」という感覚で取り組むことの強さはそこにある。

今の世の中ってクソ真面目に生きるより少し適当に生きた方が楽かも。真面目に生きると息苦しい。

あれだな、悩みごとがあったらなんとかなると思うと悩む必要ないだろ?
おれはいつもこれだわwww


できることをやろう、落ち着こう。

時間こそが財産。たくさん持っていても、それらを使いこなす時間と心の余裕がなければ意味なし。

たいていのことは時間をかければできる。

降りる道は、急ぐ必要がない。

モノのためには過分に働くことになるし、所有が多いほど、身軽さを失う。

時間と健康な心身があれば、実はお金はほどほどでも、自分の欲することは習得できるし、行きたいところは行ける。幸福と安心は得られる。

考えても導き出せないなら諦めて投げ捨てちゃう方が楽ちんだなと思った。

結局は辞めない奴がもっていくのだ。

選ばれようとしていないか?
選ばれるために自分を捨てていないか?

他人になろうとするものは、自分になれない。

個性は偏りだ。短所から戦略は生まれる。欠点を直すより使いこなす。

 


世界は広い。そして人生はなんとかなる。見えていない選択肢を見るために、
もっとたくさんおかしな体験をする若者が増えてほしいと思う。

 


人生がうまい人は変化をつけるのがうまい。少しだけいつもと道を変えて小さな感動を集める。

突き抜け感とは、社会に必要とされる存在を演じる事で社会に居場所を得る生き方から、自分を貫き通し自分が必要とされるかどうか判断は社会に委ねる生き方への転換である。

 

限界の概念を持って自分の強みを考えると、苦手なものを克服している時間なんてなくて、得意なものを徹底的に伸ばす方向がいい。

 

 

 

 

 


物事に因果関係はなくて、いい人が長生きする訳でも、悪い人が罰を受ける訳でもない。
頑張ったから報われる訳でも、努力していないから勝てない訳でもない。
ただ人生で起きる出来事にぼくらは翻弄される。こういう感覚や世界観を無常観と言うんだ、とあるお坊さんに教えてもらった。


本当にひとつの目標を固く決めつけて死守する必要があるのだろうか。
人生には、「仮置き」や「仮決め」という選択があってもいいのではないか。

どうしてもうまくいかない時のは視点をずらしてみたり、大胆に組み替えてみたりしてみることもまた大切な手法ではないかと思う。


20歳か21歳の頃だった。
どこかに「勝てる手法」があり、それをきちんとやった人が勝つという方程式そのものが
間違っているのではないだろうか。
と気づいた。


自分のコンプレックスとは別の領域で、楽しさや達成感や成功感覚を得ることで、コンプレックスそのものを消してしまうことはできないだろうか。

 

筋&肉⁉️

筋トレにおいて、ライバルは昨日の自分であり、昨日の筋肉だ。昨日より一日でも多くトレーニング回数を多くしたり、重いバーベルを持ち上げたら、今日の自分の勝ち。

勝ち続けた証が、筋肉として身に現れる。それが揺るぎない自信になる。


何はともあれ、ダメダメな俺が、筋トレのおかげでかなりマシに生まれ変わったのである。

すべては筋トレを通して得た正しい努力の仕方や

成長のコツ、苦境でも折れないメンタル。


圧倒的な体力、自尊心やそのほかあげたらキリがない。

筋トレ哲学、人生論のおかげだ。


今は貧弱な身体、貧弱な心であってもしかたがない。それを受け入れたところから成長は始まる。

そして自分なりに努力を重ねて筋トレをしてある日、鏡に映った自分を見てほしい。筋肉は努力を裏切らない。

以前よりも大きくたくましくなった身体が、心にも自信を与え、強くしてくれる。

それを繰り返していればいつか

“無敵の自分”になれるだろう。


「俺は逃げも隠れもしない、文句があるならかかってこい」って態度で生きるのは気持ちがいいぞ!!

 


やる前から「才能がない」といってあきらめてしまっては、なにも始まらない。

それは目標から目をそらすための言い訳に過ぎない。才能なんて試してみなけりゃわからない。だから他人に勝る才能を見つけるためには、できるだけ多くのチャレンジをするしかない。努力が報われないときもあるけど、成功している人間はすべからく努力している。

 

生物として弱いと認識されるとなめられて仕事を押しつけられたり、イジメられたりします。俺をなめんなよと常日頃から攻撃的な性格でいるとただの痛い人。
嫌われます。

どうしたら穏やかに過ごしつつも“危険な生物”と認識してもらえるのか?


答えは簡単。筋肉です。

筋肉は生活に平穏をもたらします。


メンタルが弱ったら、そく筋トレ。とりあえずベンチプレスやっとけ。


ゴツゴツした背中は、めちゃめちゃ格好いい。

背筋からにじみ出るオーラは、ときに口よりも雄弁に語り、世間の野郎どもを魅了する。

すなわち、広がりと厚みを備えた背筋というのは、ただの筋肉ではない。そこに凝縮されているのは、男のロマン

 


立ち姿も美しく変わり、周囲に凜とした印象を与えられる。代謝も上がって、太りづらい体質にもなる。

な?ロマンだろ?

 

たまに「自分に自信がない」という人に会うけど、それはきっと
「努力し尽くしていない」からだと思う。
本当にもう限界ってくらい徹底的に努力すれば、それをやり遂げた自分への自信という
“心の背筋”がつき、必ず人生の支えになる。

まずは、自分の好きなもの、憧れるものでもいい。とりあえず目標を定めたうえで、そこに向かって全力で努力してみたらどうだろう?


筋トレって実は予防医学。体調変化に気づかせてくれる。

毎日が退屈に感じるのは、自分で「俺の仕事はここまで」って限界を設け、やるべきことを勝手に限定しているからだ。

試す前にあーだこーだ言わないでくれ。試せ。

 

凡百の死達


人生はいいことばかりではありません。当たり前です。
これから先起こる事。悲しみや悩みは生きて行く上で乗り越えるものです。
人の死が辛いから自分が死ぬって勝手ですよね。
アナタが死んで悲しむ人はきっと沢山います。
自分が背負えず苦しんでいる悲しみを
友達や家族に背負わせるなんてあんまりです。

ところで自殺ってどんな理由があっても
実は他人に対する攻撃だって知ってました?
他人を悲しみや苦しみのどん底に貶めるための攻撃です。

生きて行くのが辛いから死のうと思います。
誰のせいでもなく自分が弱いからです。と遺書を書いたとしましょう。

でもきっと周りの人は
「苦しんでいるのに助けてあげられなかった」となります。
顔では笑っていても、心では泣いていたのだと気づいてあげられなかった。
つまりアナタの気持ちに気が付かなかった人に対しての攻撃になるんです。

アナタは今死にたいと言いながら怒ってるんです。
前向きなフリをして辛い思いをしている自分に誰も気が付いてくれないと。
そしてそれを自分が悪い、自分の所為だと無理矢理思い込んでいる。

他人に迷惑をかけたくない。心配を掛けたくない。
そういう気持ちを持つ事は大事な事です。
でもそれも行き過ぎると不満や不安となって心に溜まって行きます。
そして自分が悪いからこうなったんだと勘違いをしています。

自覚して下さい。それはアナタの怒りです。
どうして辛い思いをしているのに笑っていなければいけないのか。
悩みがないなんて思われ続けなきゃいけないのか。
それを死によって誰かに知らしめたいのですよ。

アナタが死んで辛い思いをするのは一体誰ですか?

本当に誰も悲しませたくないのなら死を選ぶのは間違いです。
自分が死んで悲しむ人がいると知っているのなら尚更。

もう一度言います。自殺は攻撃です。
アナタを今の苦しみへ追いやった全ての人に対してのね。
「私が死んで悲しめばいい!」って怒ってるんですよ。


一年間くらい死ぬことばかり考えていたので、質問者様程辛い目にあっている訳ではないのにおこがましいかも知れませんが……
今はだいぶ回復しましたけど、自殺願望は常にあります。ただ、この世に未練がある内は無理に死ななくてもいいかなって、睡眠薬だけではなかなか死ねないのでどうやったらそれなりに楽に確実に死ねるかを調べて調べて考えて考えて、ああ、これなら、本当に本当に死にたいって思った時に確実に逝けそうだから、今はまだいいかなって死を先延ばしにしました。健康な人に言うとドン引きされますけどね……。楽しみなことが先にあると、その日付を見ながら、これが終わったら死んでもいいんだ、と言い聞かせて毎日欝々と生き延びる。でも楽しいことがあると幾分救われて(まあ三日もしたら死にたくなるんですけどね)……の繰り返し。
好きなこと・遣り甲斐のあることが残っている内は、無理に死ななくてもいいんですよ。でも、どうせ本当に八方ふさがりで身動き取れなくなったら死ぬ人間だからな、って考えながら過ごしていたらどうにか今も生きてます。
楽しみなことを何か作ってほしいと思いますし、私のような無責任人間になれとは言えませんが、生きている間にかけなかった負担を死んだときもかけてはいけない理由がわかりません。死ぬ時負担をかけないんだから、生きている今負担をかけたらどうですか?元気なフリなんかしなくていい。寧ろ、死ぬ時の為のお金をかけていたんだと分かった時こそ、家族としては発狂モノではないでしょうか……。


人によるかなぁ。私も辛くて死にたい言いながら10年生きてます。こんな共感いらねえよって思うかと思うのだけど、今から思えばわかりすぎてるから悩むんだよね。愛されてる、でも未来に逃げ道が見えない。辛いことがこれから何十年続くかわからない、怖い、甘ったれてるかもしれない、生きることが怖いの無限連鎖。なら死ねば楽になれる、考えなくていい、でも親が悲しむ、みたいにグルグル回転木馬です。
私は生きろって言えるほど強くないんだけど、まあ生きててやっぱツライし。
ほんのすこし、光が見えたら私も貴方も生きるくらいの元気は持てるんだよね。悩むのはやっぱ死にたくないんだよ、多分。スパッと死ねたら楽になるかもだけど、諦めきれない。
根底にあるのは隣の芝生は青い現象だと思うの。私は私のしあわせがあるって言い切れる何かがあれば人はどんな苦痛さえ屈指ないと思います。
私アニメ好きでさ、物語作るの好きなの。あなたは何か好きなのある?他人が干渉出来ない好きなもの。とりあえずそれを見つけるまで諦めないでギリギリでいいから踏ん張ってみたらどうかな?まず第一目標は朝起きる。次はカフェにいってみる、みたいな。今と違う世界を恐れないことから始めてみたらどうかな ️

 


赤ちゃんを、おろして、そのせいでお父様にガンが見つかったと言ってますが、それは大きな間違いです。神様は、ちゃんと見てないです。いいことばっかりしてる人にも、平気でひどいことするし、悪さするやつでも、バチはあたりません。そんな世の中です。
私の知人で、最低な人がいます。人を傷つけ、利用し、騙し続けた人。でもその子、普通に優しいださんなさんと、結婚して、今、幸せです。そんなもんです。ばちなんか、あたりません。なので、赤ちゃんをおろしたせいで、お父様にガンが見つかったというのは、嘘です。たまたまです。あなたが、罪悪感を感じてるから、それに自分で結びつけてるだけです。大丈夫です。

 


あー
歌うの好きだなぁ


身内に自殺されたら、それを乗り越えることはありません。ずっと「あの時気づいてやれたら」「生きていたら、もう〇歳なんだな」「子供の気持ちに気付いてやれず、私は親失格だ」「私は子育てで何かとんでもない失敗をしたのではないか」そんな後悔と未練がずっとお母様に残ります。病気や寿命で身内を亡くすのとは大きな違いです。激しい罪悪感と自問自答の日々が続きます。子供を愛していなかった親であれば別。でも、普通に子供を愛していた親であれば一生を悔やみながら過ごすものです。そして時に「私もあなたのそばにいけたら」とマイナスの感情に揺さぶられます。

ものすごく辛いことで、地獄といっても過言ではないほど、自死で子を亡くすのは親にとってこれ以上ないほどの壮絶な苦しみに身を置かれます。

自殺者を出した家っていうのは、ふつうに亡くなられたのとは違うので、やっぱり世間の目も厳しいです。家族として崩壊していたのではないかとか、自殺は遺伝もあるのでそういう疑いをかけられたりとか、親としてどうだったのだろうと非難めいた目でみられたりとか、逆に可哀想と同情されまくるとか、自殺原因を詮索されるとか・・だから、ご遺族が親戚や近所など周囲に対して、身内が自殺だった事実を隠し、突然死だったとか心筋梗塞だと曖昧にぼかすケースも実は多いです。

隠し通せない場合は、周囲の反応もギクシャクしたものになり、腫れ物に触るような扱いを受けます。自死と自然死ではこうも違うものかと・・残された家族は本当に大変です。通夜や葬儀の時にも、葬儀場の隅や陰で参列者のヒソヒソ話が絶えなかったり・・独特の雰囲気です。

自殺する人は、自分が背負っていた重荷を全部この世において身軽に旅立っていきます。その重荷は倍になって身内に降りかかるのです。こんなに身勝手な死もないと思います。

娘さんを自死で亡くされた人を知っていますが、わずか1年で別人のように老け込んでしまい、それまで明るく社交的だった女性なのに、今は人づきあいを避け、世間から逃げるように家に閉じこもって生活されています。顔つきも目つきも変わってしまい、話し方も変わり、どもる、おどおどと喋る、チック症なのか喋るたびに顔の左側が引き攣れます。心療内科にかかられているようですが、とても良くなっているようには見えません・・あまりに親不孝です。

 

橋の下にて昼食ですよ。

 

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ホットモットのチャーハンを注文。数量限定とあり、なんか得した気分になる。

今日は日差しが強過ぎるから高架橋の下で食うぞ。
今日暑すぎですよ。だるい。


高架橋の下は日陰になっていて、想像以上に涼しい。

チャーハンはうまい。唐揚げもついているのがいい。
うん、これだ。

夏にチャーハン。いいじゃないか。


生きていくのが漠然といやなんだよな。死にたい訳ではないけど。

こんなこと考えなくてもいいんだけど、ふと考えてしまう。

それは暇だからじゃないか?という意見もあるが、そうかもしれないが、

こう漠然とふつふつと感じる想いが確かに胸の中にある。

モグモグモグ、チャーハン旨し。

 

冗長な日常に飽きてきている。
それになんか孤独で寂しいし。


でもどうすることも出来ずに途方に暮れる。
そして年を取る。老いていく。
そんな有様がなんか嫌だし、寂しい。


だからといってどう生きたいのかとかはない。


モグモグモグ、チャーハン旨し。唐揚げもいいね。

 

今が幸せって気もしなくもないが、冗長な日常が少し、いや割と辛い。


なんで辛いんだろう?

孤独だから?


考えてみるんだけどはっきりとした原因は分からない。


虚しい。この先、どうなるんだろうか?オレは。

愚痴を書きながらまた暮れていく今日である。


どう在りたい?
どうなりたい?


浮かんでは消えるそんな自問自答に答えを訪ねるが応答はない。

オレの心は音信不通。

 

ツー、ツー、ツー。
この電話番号は現在使われておりません。

 


もう一度問う。

どう在りたい?
どうなりたい?


返信が来た。


どうにもなれない。
どうにも出来ない。


ORぜっと。

 

オレの日々こんなんばっか。嫌になるね。

なんとかならんかね。モグモグモグ。


風が吹いて、雲が流れて、チャーハンを口に運んで、今生きている。

なぜかは知らんがここにいる。その不思議さよな。


考えが及ばない。
どう在りたいとかではなくて
既にオレは在る。という。

存在しちゃっているという。

意味もなく。


いや、もしかして、、、


モグモグモグ。チャーハンおわり。


美味しかったよ、ごちそうさまでした。

ファイティングポーズは伊達じゃない!


俺は長期ひきこもりだが真夜中になると部屋でファイティングポーズをとる
自分でも後で笑っちゃうんだが、真顔でポーズ決める

その意味は「俺はまだ死なねえぞ」って意味を込めてる

世界では病死や寿命含め1日約15万人 日本だけだと1日約3千人が死亡する

今日死んだそいつらに対しての勝利宣言と、明日死ぬあいつらに対しての宣戦布告の意味を込めて、無職ひきこもりの俺が本気でファイティングポーズ決める

 


うちのじいちゃんが言ってたんだが
普通を求める人間とは仲良くなるなって言ってた
欲が強い、欲がまったくない
そのどちらかになる、そのどちらかの人と仲良くなれって言われた
ちなみにじいちゃんは欲が強い人で息子のオヤジは欲がないw
じいちゃんは成功者だけど割と敵がいる
オヤジは成功者ではないが仲間がたくさんいる
自分の足で立つじいちゃんと周りに支えられるオヤジって感じか?
どっちが良いか、じいちゃんの伝えたいことはまだわからないや

 


金のかからない趣味ややりたいことを沢山見つけて仕事やめればいいじゃん


馬鹿が中途半端に賢ぶっても周りから見れば哀れだわな
馬鹿なら馬鹿のまま楽しんだ方が断然賢いよ

 

自信がない人は無意識に不幸になろうとするらしいよ

 

生まれてくる場所と時期が大きいと偉大な近所のおじさんが断言している

 


どうしようもないときはどうしようもない
ギャンブルをやるといろいろと勉強になるよ
最高についているとおもえたときでも負けるときは負ける
最悪についてないとおもえたときでも勝てるときは勝てる

 


出来事や経験だけみれば幸運も不運もないようなきがするのだが
大学受験にたまたま失敗してもそこからなにかを学んだことで就活では成功したり
大学受験にたまたま成功してもそのときみたいにいかなければ就活では失敗したり
結局はその出来事と経験が後々にどのように転ぶかでしかなんだかんだわからないでしょ
そういう意味では死ぬまでなにが幸運で不運なことなのかわからないように思える