私たちが生きづらさを感じる時、それは自分そのものに欠陥があるのではなく、単に自分の「力」を理解しておらず、その「力」を正しく使えていないだけなんです。 ハサミって、その道具自体に善悪もなければ、良し悪しなんてないでしょ。問題が起きる時って、たとえばハサミで石を砕こうとする時だと思うんです。ハサミは紙を切るから便利であり、石を砕くのはハンマーの役割なんです。
自分の「力」を知り、受け入れ、それを自分にできるレベルで人や社会のために活かし始めていった時、あなたの「自分らしい人生」は始まり、幸せが循環する素敵な人生へと変わっていくんです。
人はそもそも、誰しもこの世界にとってかけがえのない存在です。あなたが気づいていなくても、必ず誰かの役に立ち、誰かを支えています。でもそれを私たちは忘れてしまったり、その事実に目を向けようとしなかったりして見なかったことにしてしまう。 あなたが自分を受け入れ、自分を活かしていく決心さえすれば、あなたの目の前に進むべき道が現れます
今の自分の状態をダメと感じるのもフィクション。フィクションであるということが分かれば、自分を責め過ぎずにすみますね。 結局は、人が幸せになるのに一番必要なのは、今の自分の状態を「ありのまま」に受け入れるということが、はじめの一歩なのかもしれません。
よし、60歳以降、やらないといけないことは一切しない、したいことだけ、自分の人生を心地よく生きるために魂の喜ぶことだけしかしない!」と。
人間が生きる目的は「自分が幸せになるためだ」という当たり前のことに気付くのに相当時間がかかった。
ガンが家庭内暴力で暴れる子供だとしたら、その暴れるわが子を敵対視し、排除しようとする限り、その家庭に平和が訪れることはない。親が愛情を込め、子供に正対し、抱きしめることでしか道は見えてこないのではないだろうか。ガンもそれと同じことではないか。
すべてを医師任せにするのでなはく、とても苦しく辛い思いをしながら生きてきた自身の体、心、魂を、自分が癒すと覚悟を決め、勇気をもって、面倒をみてあげなければいけないのだと思う。
これまでしないといけないことばかりしてきたんやから、これからはしたいことだけしたらええやん
あなたはそんなにいろんなことやって、一体何になろうとしているのですか」と時々聞かれる。最初は、その目的がないことに自分でもある種の後ろめたさを感じた。だが最近は、目的などどうでもいい。ただやること自体が面白いから、楽しそうだから、ワクワクするから、そういうことでいいじゃないか、と思っている。
動く動かないは)個人の自由だ。動いた後には、感動が得られるかもしれないが失望も大きいこともある。動かなければ、感動はないかもしれないが安心や安定は確保される。人生どのように生きるか、どちらを選ぶかはすべて自分の選択にかかっている。良いも悪いもない。旅をするもしないも、人生をどう生きるかも、後悔しない選択をしていきたい。それを教えてくれるのが、旅の効用かもしれない。」
私は、これからの自分の人生を生きていくうえで「心地よい」「心に嘘をつかない」「クリエイティブであること」という価値観をを大切にしていきたいと思うようになった。
その最後の瞬間が来るまでの間、自分が、今とこれからをどう生きてゆくかに焦点を当てた生き方をすべきであり、それこそが真の幸福であり、人生の栄光なのではないか、と思った。
文章や写真や楽器で何かを表現する、何かの企画や構想を練る、あるいは人と深い対話している、といったことをしている時に、自分は一番楽しいと感じているということだった。だからこの条件も、自分の人生を生きるための条件として加えた。
「あなたがどれだけ人生に絶望しても、人生のほうがあなたに絶望することはない
のんびり派になった僕の経験になりますが、人一倍頑張る!というのを諦めた時に手に入ったのは、心の余裕と日常の些細なことに幸せを感じる気持ちでした。
人の幸せって実は小さなことなのかもしれない。本当にあったかい気持ちは、お金や地位や名誉を得るだけでは経験できないんですね。こんなにすぐ近くに幸せがあるなんて僕はずっと気付かなかった。 自ら真っ暗なトンネルや、茨の道を選ばなくても幸せになることはできるはずです。僕は誰になんと言われようと、平坦な道をなるべく選ぶし、山を歩くならなるべく景色を楽しみながら歩いていたい。
いいんです。見返りなんて求めなくて。 見返りを求めることを忘れ、自分にできる貢献をひたすらしながら与え続けることで、あなたの周りにいる人たちが幸せになっていきます。するとその先で、いつか違う形で幸せが思わぬ形で返ってくることもあるかもしれません。一つ間違いないのは、みんな幸せなら自分も幸せになるということです。
与え続けることを、やめないでくださいね。 迷ったらとにかく難しいことは考えず、与えまくる。自分にできることで与え続けることが、幸せな未来へと続いています。
たとえば「私なんてムリよー」という感情だったとすると、その感情を釘に見立て体からスポッと抜き去り、「こんなのいらないよ」と言って投げ捨てる。なので、色々な体の場所から何本も釘を抜き去るということをやっていたのです。 これはもう要らないものが出たに違いないと今回もまた都合の良い解釈で喜び、その小さな釘をベランダから思い切り投げ捨てました。超!スッキリしましたぜ!
神様のお願いで学んだ事といえば、ただお金をくれ、というよりは、どうしてそのお金が必要で、そのお金でこういう事をしたいんだという目的を伝えるということ。お金は体験や経験をする為の手段であって、お金そのものが目的ではないということです。ここのところは人間社会と何だか似ていますね。 神様へのプレゼン力がどうやらキーポイントのようですよ!
限りがあるんだからポジティブに楽しく行った方がお得よ、お得!