だから世の中ナメてちゃいけない、何が起こるかわからない、死ぬまで安心できない、だからこそ後悔のないように精一杯生きなきゃいけないと改めて思ったわけです。

完全に死んだ状態を経験したのは4回ですね。2回目の心筋梗塞、3回目のバチスタ手術、その翌年のブラックアウト、そして2016年のストーミング現象。「死ぬ」ってのはうたた寝と同じで、カクって意識を失う時がありますよね。真っ暗な無の世界。それが永遠に続くか、2秒で終わるかの違いだと思うんですよ。

 

 

だから世の中ナメてちゃいけない、何が起こるかわからない、死ぬまで安心できない、だからこそ後悔のないように精一杯生きなきゃいけないと改めて思ったわけです。

 

本当に生きてさえいれば、いいことがいっぱいあるなと心底思いますね。

 

仕事とはどういうものですか?

ひと言でいうなら趣味ですね。自分が好きでやりたいこと。仕事はライフワークじゃなきゃいけないと思います。目的は、自分をキープさせるためのもの。もうこの歳(60歳)になると発展はないよ。だから現状維持のためのリハビリ、ボケ防止のためにやるって感じかな(笑)。

 


僕の人生は29歳で想像すらしたことなかったくらいに劇的に変わったので、年齢は関係ない。ただ、目の前に小さくても必ず幸運は転がってる。それを逃さないことが大事だと思いますね。人生は回転寿司なんです。目の前に金の皿が来た時にさりげなくすっと取れるかどうかです。目の前に来るより先に手を伸ばしたら別の皿をつかんでしまうし、ちょっと遅れたら隣の人の前に行っちゃうから取れません。

 

 

世の中や他人に迎合しない方がいい人生が送れると思いますね。自分のカンを信じて、オリジナリティを大事にした方がいい。

 

 

自分のスタイルみたいなものがあるとしたら貫いた方がいいよと言いたいですね。他人の目ばかり気にしてたら生きてて楽しくないし、後悔が残る人生になるんじゃないでしょうかね。

 

 


それから、お金が稼げても、すごく忙しくて挙句の果てに自殺したら意味がないわけですよね。だから仕事一辺倒じゃなくて、心に余白をもって何かを楽しむとか、多少なりともゆったりできる時間をもつようにすることが必要だと思います。社畜になっても会社だけが潤うだけだからしょうがない。それよりもっと自分を潤してねと伝えたいですね。

 

 

 

一人一人のつながりが感じられた時に芽生える、この詩のような、感情。結局、人生って自分のものではなくて、“人と過ごした時間”のことなんだなぁと、思うわけです。一人でいることが好きな人もいるでしょう(僕も一人の時がどちらかというと好き)。けれど、それも、他人があって、人がいて、一人になるという意識が出来る。誰もいない一人ではなくて、誰かしらがいる状態の一人。

 

 


最近、「動物的に生きたい」とよく考えます。それは「よくわからないまま、直感で生きる」ということです。人間は賢く考え過ぎですし、わかりやすく、説明できることを良しとし過ぎだと思います。わかりにくいことを、そのまま飲み込んで、感覚で答える。

 

 


大事なのは、今の自分の姿をありのままにとらえて、命の続くかぎり、

本当の自分の人生を生きることなんだな

 

 

今、生きていることって、生き残されていることだったんですね。

真の自分を見つけて、「私は何のために生まれてきたんだ」「何をすべきなんんだ」と

考え続け、行動することが大切なんですね。

仏様が与えた宿題を果たすために、生き残されているんですね。

 


だったら、こずるく生きるのではなく、愛を広げる生き方をした方が、仏様も喜んでくれそうです。

「私は虫である」で、熊田千佳慕さんも言っていました。

「よく親父に言われました。こじきになっても、王様になっても、愛を忘れるなって」

 


生きているうちに「よい使い方」をしなければ、お金の神様にも叱られます(笑)

 

あの世に持って還れるものは、単純に、「心だけ」なんですよ。

 

平家物語ではありませんが、「絢爛(けんらん)豪華で華美なものを築いてもどこかで滅びてしまう」という考えが日本人のマインドにはあります。

 

 

悪魔祓いの偉い先生は「どんな悪魔も患者さんの心がワクワクし出さないと治らない」と言いました。

 


 それから「どんな人に悪魔が憑くのか?」と聞くと、悪魔祓いの先生も村の人も一様に、「孤独な人に悪魔が憑く」と言うのです。

 

 


自分がつくっている悪魔と称する"こだわり"ですね。こだわりが悪魔になってしまってしまう。それは心身症そのものですよ。心身症はそのこだわりを取ってしまえば治るわけです。

 

 


悪魔の祟りである悪影響を"まなざし"という言葉でいいます。周りの村人からいいまなざしをもらっているときは悪魔は来ない。ところがその人が何かこだわりを持っていて、「どうも俺はあいつから憎まれているのではないか」、「みんなが俺の不幸を願っているに違いない」、「私は孤独で見捨てられた存在なんだ」などと思ってしまうと悪魔が来る。

 


お祭りをやってみんなで笑い合って発散して、「自分の悪魔祓いに村の人たちがたくさん来てくれた」という気持ちになって孤独感から抜け出せる。他者とのつながりを通して人は癒されていくということです。


諸行無常というのは、なくなるだけのことではなくて、今持っていなくても次にもっと持てる、もっと幸せになるという意味でもあるのです。日本社会はもともと諸行無常を受け入れていた社会なのに、この近代化の中でやたら持つことや持ち続けることにこだわって手放せない人が多くなっているように思います。

 


 江戸の町民にとっては、いかに毎日を楽しく暮らすかが重要でした。幸せというのは、その一瞬一瞬をどうやって楽しんでいくのかというところにありました。

 


右肩上がりに慣れすぎた人たちは、「幸せとは何か」ということについて、なかなかその枠組みを離れて話すことができないのです。

 


自分の持っているものを捨てていくときに、本当の心の安寧があり、幸せがあるのだということが、今日的な要請として出ているように思います。

 

 

 

 


われわれはひたすら成長のために今はがまんして右肩上がりにするというのは得意ですが、手放していくことは意外と不得意です。築いたものは崩壊していくもので、手放したりすることで心のバランスを取っていくということが日本の伝統としてあるわけですが、ここ数十年間はそこから相当離れてしまいました。それをもう一度、適正水準に戻していくことが必要なのではないでしょうか。

 

 

 

 


 施設に勤めている方から聞いたのですが、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と声をかけていると下を向いた感じの人も、「鈴木さん」「佐藤さん」と呼んだ途端に個人の顔になるというのです。「自分は昔、会社でこんなことをやっていた」、「戦争に行ってこうだった」などのライフストーリーがあり、自分自身の尊厳を持った、自分の歴史を持った鈴木さんや佐藤さんが出てくる。しかし、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼んだときには、グループとしての扱いになってしまって、その人の光が消えていく。

 「われわれの社会が成熟した」という意味は、1人ひとりが成熟して個性豊かな人として扱われて、一番自分にフィットする生き方を選べるということであり、これが「豊かに生きる意味」につながっていくのだと思います。