念仏、本願。

 

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まー自分を大事にするのもいいけど、しすぎるのも違うと思うよ。ほれ、崖から飛んでみろ。

ドガ

師は青年をケリ落とした。

fひゅーーーん

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念仏称えて就職できるのか

 

例えば簡単に言えば

「念仏となえて就職できるのか」という感覚があるわけです。

 

もちろん、念仏をしたからといって就職できる訳ではありません。

では、そこで就職できなかったということがあった時に、「念仏の救い」というのはそのいずれの立場にも関わりがないのかというと、関わりがないとは決して言えない事ではあります。

 

 

 照らす

自分がどのような者として見えてくるのか、あるいは見えることによって自分をどのような者として受け止めていくことができるのか、そういうところに「念仏の救い」というものがあります。

就職できるか、出来ないかというところには念仏は直接には応えないわけです。ところが就職できたとしてもその人の生き方の中に課題とすべきものがあって、あるいは就職できないということを経験されたとしても、その人の上にも何か課題としなければならないことがあります。

 

 

 

これだけの資格を持っているのに、その資格を一つも活かすことが出来ない。どうしようもない自分がいる。

 

 

 

 

敬うということはどういう事か、なぜ人を敬うことが出来るか、自分を敬う事が出来るかといえばそれは願われている存在であるという一点しかないんです。

 

 

 

 

証明されていく道

 

真宗の教・行・証」とありますが、真宗といいますのは具体的に本願を信じてただ念仏する生き方

 そして念仏するという生き方そのものが本願を信じる現れであります。本願に救われていくことが証明されていくような歩みです。かつて本願に救われたということでもないんです。

 人生の在り方を「証」という言葉に見ていけるのだろう。

 

 

一日一日のその時その時に本願を仰ぎながら念仏するところに喜びをもち、またそこに願われてある我が身を「なまんだぶつ」と感じる生き方が浄土に生まれていく道としてあります。

それを「いま盛んなり」と言われている訳です。そのような今の連続ですね。浄土真宗とはそういう生き方の呼び名です。

 

 

 

あらゆる人間存在が「西に向かって去く」というところに、そういう言葉で表された存在である。

これは、何事かを欲しながら、何事かを求めながら生きていくというのが私たちの存在としてある。

問題は何を欲しているのか、何を求めているのかという事がなかなか容易に明らかに出来ない。

 

 

そういう宗教的欲求を持つ一人一人の存在が、宗教的に発露する一つの在り方としての孤独。

たとえば周りに誰も人がいない、誰も私を分かってくれない。そういう実感の所に現れてくるようなものが、実は私たちが何事かを欲する存在であるという事の証明である。

 

 

 

「私は何も求めてない」

言葉としては言うことができますけども、そういう言葉でいくらそれを繰り返したとしても、虚無。

私たちは何で悩むんだろうか、何で苦しむんだろうか。例えば、そこにはそれを引き起こす周りの環境があります。

ただ問題は、苦しむ状況があったから必ず私が苦しむというものでもなかったりするわけです。

 

苦悩の縁に置かれている。

 

 

実は悩むということ自体の意味は、私の存在そのものに関わるものとしてあるという事がございます。

 

 

私が生きていること、実はそのものが群賊悪獣である。

 

 

自己否定

西に向かって歩む僕ら、私が一人の者として生をうけ、そして私の人生を歩んでいこうとする。これが「西に向かいて去かんと欲す」。その人生の歩みの中で孤独というものに直面していく私がある。その私が私を殺そうとして私を追いつめようとしてくる。

 

こんな僕なんてどうなってもいいんだもん、こういう言葉。

よく考えてみたらドキっとする言葉ですね。

 

 

 

 

私はこうすれば救われる

こうすれば解決される。

こうすれば解放される。

 

そういう思いで私たちは求めていくわけです。

今この私が抱えている悩みを救ってもらうのはこの宗教だという形で。こういうことをすれば今の私は変わっていく。そのように思って。

 

 

念仏したら救われるんですね?

 

私がこのようにやれば私が救われていくという事を確認しているだけなんです。これは念仏に救われるんじゃなくて、私の想いが私を救うと言っているのと一緒なんです。

 

 

「ここではこういう事をするんですか」

「例えばこういう事をすればどうなるんですか」

こうやっていくつか聞いておいて、その中で一番効果があると思うものを選ぶ。

これが宗教を選ぶときの一つの在り方であったりするわけです。

 

 

そして自分の思った通りにならないとどういうかと言うと

裏切られた。

 

 

「念仏はこんなはずじゃなかっった。裏切られた。やっぱり念仏は意味ないですね。」

といって念仏以外のものをまた探し求める。

それは

念仏によって救われるかではなくて、私の想いに叶うのか叶わないのかです。私の想いによって救われていくのか、いかないのかが直接的に問題になってしまっている。

 

 

 

 

念仏するくらいなら、自分で努力した方がまだましという感覚。「死を恐れて直ちに走りて西に向かうに」

誰も解ってくれないというのはオレがダメだからだ。と。オレがダメだからといってそれが解決できるかっていうと、自分には解決の道がないと自分から目を背けていく。自分を見ないようにするという形で逃げてしまう。

 

 

西に向かう

自己逃避というなんともやましい情けない姿で走ってみたところで、結局それでも西に向かっていくわけです。

ここ大事。

逃げても逃げても西に向かっている。

 

 

 

 

 

自分がどれだけ否定しても、自分がどれだけ自分から逃げようとしても、私は死に向かって歩いていることは消えないわけです。命の事実として消えないわけです。

 

 

また本願を通して私というものを確かめていくと、私がどれほど自分に行き詰まり自分から逃げようとしても浄土に生まれることを願うというその如来のはたらきの事実は、必ずそこに消える事なく絶えることなくある。

 

 

 

 

引き返すことも留まることもできない。

引き返すことも、進むこともできない。

そしてそれを怖れる。

 

 

 

どれ一つとしても死を免れることがないならば、私はむしろこの道を尋ねて前に向かっていこう。

道はあるのだ。

 

すでにこの道があるのだ。

必ず渡ることが出来る。

 

 

 

念仏はいつ如何なる時代に人間が生きようとも、私たちがどの様な状況を生きていく事になろうとも、念仏は確かな道であるという事が、自分の中に本当に腹が据わっていれば、そこに落ち着いたところから現代にどう関わりましょうか。あるいは現代にどう向き合っていきましょうか。という事が本当はそこで言えるわけです。

 

 

 

ところが「念仏がどうも通じないのではないか?」こういう所に私たちそのものの念仏に対する揺らぎが実はある。だからやる事なす事自信が持てないわけです。

「こんな事やったけれども何か足りないんじゃないか?」

「こんなではやっぱり認めてもらえないんじゃないか?」

これも真面目な心だからこそ、そういう風になっていくんですけれども、本当はですね、念仏以外の道はない。

 

 

すでにこの道あり。必ず度すべし。

この道を歩む事に対する決断。自分が選び取った道に対する信頼の深さですね。

この生涯ある限り、ただ念仏する。その日々しかないんだ。

心は浄土にある。そして身は娑婆にあって願力の白道を、

 

 

 

 

人間の在り方、全体に対する悲しみ、痛み。

親鸞聖人はおそらく、私たち風の言い方をすると

「これが人間なんだろうか?」

「これが人と言えるんだろうか?」