結局いつもなんかだるい、いややなあ。

俺は結婚とかどう考えているんだろうか。。。。

したいけど、全然現状がそうではない・・・ORZ

周りはどんどんしちゃっているんだよな。どうすればいいんだと

心は悲鳴を上げている。のが正直なところ。

母も心配しているし、その母の心配している姿を見て心が痛くなる。

こんな姿自体、自分のダサさを感じる。最高にださいね。

俺はマザコンなのかもしれない。マザコンでもなんでもいいんだけど。
彼女ができたこともないから、結婚なんて夢のまた夢っつーか。
どうやったらできるんだよって感じなのだ。

ただよ、このまま生活していても、結婚なんてできやしないしな。


はてさて、困ってしまったなぁ。

この行き詰まりをどうにか打開したいんだけど、今はまだどうすればいいのかもよく分からない。アーメン。嘆くしかない。失敗怖い。踏み出す一歩の勇気が出ない。あーださい。最高な気分さOz


人生というか結婚に向き合うと途端に身体的にダルくなるっていうか今までできるだけ考えないようにしていたんだよな。しかし、この歳だ。やっぱ結婚適齢期的な歳なんだよな。うぅ、どうしよう。


悩むの辞めたwwwとか言ってたんだけどな。

こう現実っていうか、問題に向き合った時のこの焦燥感と寂しさったらないね。現実的にこれからどうすんの?って、

あああああああああああああ

うん、やぱいね★ってやっとく。意味はないけど、少し落ち着け。


ああ、でも胃が痛くなってきた。うん、こう書いていても何も現実は変わらないんだろうけど、少し落ち着くからタイピングしている。


現実的にやれることをやるしかないよね。うん。ああ、

結婚しなきゃいけないけどどうすればいいのだあああという話しでありました。

俺の未来はどうなっているの?自分で切り開くしかないの?

それだったら切り開ける自信なんてないんだけれどオオオオオ。


(*´Д`)ハァハァはぁh どうすればいい?どうがんばればいい?

はーーー無理。考えただけで無理。結論は出ました。無理なのです。そう無理なのでしたwwwwwwwwwww


はぁ最高に弱い自分じゃん。おれって実際こんなもんだったのかOz

以前なら、心が弱っていた時の俺ならここですかさず

グーグルに「死にたい」って打ち込んでいた。そうして現実からできるだけ眼を背けようとしていた。

今回はこうしてここに愚痴をぶち込んでいる。そうしたないと平常心を保てなさそうである。

mぁやっていることは何も変わらんかw


俺には妹もいる。この妹もやっぱ彼氏とかできたことなさそう。いつまで家に居れるのか分からないが、妹も生き方に悩んでいる最中なのだ。妹には幸せになってほしいと思うんだけどな。

俺が結婚したら、この家に居ずらくなるよなぁ。・・・うーむ。


なんかいろいろ上手くいかないね。でもどうすればいいのか。解決策は未だにない。手はない。とりあえず嘆くだけ嘆いてみるしかない。


そして現実的にやれることをやるしかないのだけれども。も。も。


あああー焦燥感。

現実はヒリヒリしている。ううう涙


あっそうだ。とりあえず部屋の整理整頓しましょう。そうしましょう。


でも、あれだな、考えてみれば、今までは「死にたい」とか言って布団に潜り込んでいただけだったのが、身体を机にもってきて、外での作業までして、元気になってきたってことだよな。うん。

元気だから、結婚どうしよう((((;゚Д゚))))とか言っているわけだし。少し元気になったってことか、、うん。そういうことだろ。

今までだいぶ元気なくなってたんだなぁ。俺よ、元気になってくれてありがっとうっ。

俺恥ずかしッ、ダサッ。とこんな事を書きながら思う。普通と比べてしまう。実体のない普通と。


片付けしよっか・・・

タメの期間。あえて貯める。

お金を持っていることは重要ではない。お金を生み出せる人間は重要である。考えるやつが強い。

運とは、沢山の人との出会いの中で巡り会うものであり、つまり出会いの少ない人というのは自分だけで使い切ってそのまま終わってしまう。
人はお互いの運に乗っかることでお互いに利益を得ている。そして、自分の運を誰かにお返しする。


ここ数年間の日々の中で、個人的に一番変わったなと思うことは、
「なんでも自分ひとりでやろうとしないこと」だと思う。大切なことは自分一人だけで抱え込まないことだ。

なんのために他人がいるのか。それはお互いに支え合うため。自分一人ではできないことを成し遂げるためではないだろうか。


結果が出ないときは「ためている期間」だと思う。
しばらく負けが続いても、いずれ「ため」が爆発して、ダムが壊れるときみたいに
結果が出始める時期がくる。それが経験的に知っているのであれば、あえて
「ためる期間」をつくるようにしている。


ある講習会の終了後に開催された交流会で知り合った行政書士の男性名詞に、資格取得が50個以上刻まれていましたが、彼がなぜそこまで大量の資格を獲得したかという理由として
「出会いと会話のネタが広がるから」と述べていました。


私も何か、新しいアクションを起こすとき
「ネタが手に入れることが出来る」
という視点を持っています。

資格にチャレンジする時も、新しい出会いの場に足を踏み出す際にも、結果はともあれ
話のネタが入手できるというメリットを常に意識しています。

よくお笑い芸人がネタ帳を携えて、ネタを膨らませるために寸暇を惜しまず
町に出たり、社交場に積極的に足を運んだりしていますが、
まさに経験を積むことで、自分のネタに磨きがかかり、仕事の幅が広がるメリットを体得しているのでしょう。

私は常日頃から、人生をよりよく過ごすためには、笑いの力こそが、骨董油になると思っています。そして、時は流れ、社会人になってからはいかに新鮮な笑いを生み出せるのか、
日々研鑽を重ねるようになりました。


一人ですべてをなんとかしようとする強さはもういらない。それは多分強さではなく、
弱さ、臆病なだけなんじゃないだろうか?

死ぬほど暑い

要はなんでも相談できるコミュニティがあれば自殺は低減できる。同時にそれは幸せの基準にもなるだろう。
悩みの孤立化を様々なレイヤーのコミュニティでカバーするリデザインが必要。

 

出来るだけ生きながら逃げてほしいです。生きている間の苦しみは逃げ切ることが出来ます。


他人と比べるからダメなんだよ。せっかくこの世に生まれたんだから
美味しいもん食べて、楽しい趣味見つけてエンジョイすればいい。

 

少しずつ自分でできることを増やす。
常日頃から意識していることがありますが、

それは、人生は「見極めと判断の連続作業」
そして、「この世は自分の都合に合わせてくれない」

チャレンジするにしても、そこには見極めと判断がつきものでしょうし、
人や運、自分の特性、健康などが味方してくれないのは当然だ、ぐらいの覚悟は、当然想定しておくべきです。

 

ただ、常に結果が出て、常にその影響下に置かれ、常にスタートの連続であることを知っていれば、
「慎重に」「リスクが~」という言い訳で動けないのは、ただの“手抜き”であることが知れます。連続性であることを深く理解していれば、都合どおりに行かない、
ましてや不幸にしてやろう、してやろうという「力」に対し、悲観的になることも
愚かしいことにも気づきます。

不幸や不運の致命的弱点は
「継続的連続攻撃(常にアップデートする判断も含む」です。

 

チャレンジする者にとって必要なことは孤独を恐れないメンタル。これに尽きるだろう。


歳をとると他人の目を気にする気持ちが多少なりとも薄れていくことと思います。

歳をとってからでも、自分の目標や好きなことがあれば、そこに向かって歩き出すことができると思います。

でもそのためには、若いうちから少しずつでも、それを実現するための努力が必要です。
がんばってください。未来に目標があるのはいいことです。

弱い人ほど目前の損が我慢できない。状況を考えず前に出てしまう。
それが自分のリズムを崩すきっかけにもなる。成長とは変わること。


勝ちだけを意識した取り組みでは強くなれない。成長しながら力をつけることで自分が楽しいし、良い結果が生まれやすい。最終的には自分の身を守ることになるのではないかと思う。

行動力がない人には共通点がある。リスクと捉えるものが多すぎること。

 

成長できたとしてもむやみにハードルを上げない。目的は成長のループを安定して継続すること。

 

“好きなこと”という縛りを与えず、スキルといい知識の形成を優先する。
すると、そのスキルと知識が次のレベルでより心の向かう先へといく自由を与えてくれる。

 

評価軸が一個しかない世の中なんてつまらない。スポーツだってそういうものだし、そもそも貴族の遊びってのはそういうものだ。

 

もっと努力しなきゃいけないんじゃなくて、もっと楽をしたほうがいいんじゃないか、ということです。自分を認めてくれる人に会ったり、自分がしていて楽しいと思えることをしたり。


自分を見つめることからほんの少しでも逃れて
こころを休ませることのほうが大事なんじゃないかと思うんです。


何かをすることではなく、自分を責めることをやめることが、大事なことではないかと思います。

何も禁じられていないし、間違っていることでも、悪いことでもないですよ。


安心して何かをやってみてください。
「やってみる」ことよりも
「安心して」やることが大事なんだと、なんとなく覚えていてください。
心の底から楽しいな、と思えるとき、人は自分がどう見られているかなんてすぐ忘れます。

 

周りからどう思われるかとビクビクしている状態で、何かを楽しむなんて無理です。
私は「楽しめた」という体験をまずすることが大事だと思います。


挑戦に遅いなんてことはないのです。
タイミング的にスタートを切れない時でも、諦めないでいればいつか必ずチャンスがあるし、本気であれば、年齢は関係なくなるんだと思います。


失敗すると落ち込むのは仕方ありませんが、行動にフォーカスしていれば、立ち直りも早くなります。私は結果よりも行動を重視しています。だから自分のペースで頑張れるし、無理しすぎて挫折することもありません。

9日 日曜 生きる

ぼくが自分に言い聞かせているのは何か思いついたら、絶対にやった方がいい。
お客さんや周りの人に尽くせ。結果よりもトライしたという意気込みに人は心動かされることがあるから。


生きているうちにできることは何だってやってしまおう。
別にいつでも死ねるんだから、いろいろやってみようと思ってだらだら生きています。


結局この人生なんて一回こっきりだし社会的地位とか求めていないなら、バカの行っていることは正しいんだよな。

幸せのために収入があるのに、幸せを対価にして収入を得てどうするん?

 

20代のころの貯金なんて人生の面白さに変換されなかったら死に金。

20代で10万でできる経験は30代になると100万払わないとできない。
これは繰り返して言っておきたい。

 

他人と比べるからダメなんだよ。せっかくこの世に生まれんだから楽しい趣味見つけてエンジョイすればいい。

 

 

「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない。


いったいどうして人は他者からの承認を求めるのか?多くの場合それは、
賞罰教育の影響なのです。

 

アドラーは適切な行動をとったら、ほめてもらえる。不適切な行動をとったら罰せられる。
こうした賞罰による教育を厳しく批判した。
ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない、
罰する人がいなければ、不適切な行動をとる。
という誤ったライフスタイルです。

他者の期待など、満たす必要はない。


ユダヤ教  
自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか。と

 

われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。


その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?


他者はあなたの期待を満たすために生きているのではない。

わたしのなすべきことは、自らの人生に嘘をつくことなく、自分の課題に立ち向かうことなのだ。


まずは「これは誰の課題なのか?」を考えましょう。


他者の課題には介入せず、自分の課題には誰一人として介入させない。

 

どうしてそんな不自由な生き方を選んでいるのか?
あなたは承認欲求という言葉を使っていますが、要するに誰からも嫌われたくないのでしょう。


傾向性


自由とは、他者から嫌われることである。
あなたが誰かに嫌われているということ。

それはあなたが自由を行使し、自由に生きる証であり、自らの方針に従って生きていることのしるしなのです。


自由を行使したければ、そこにはコストが伴います。そして対人関係における自由のコストとは他者から嫌われることなのです。


他者にどう思われるかよりも先に自分がどうあるかを貫きたい。

幸せになる勇気には「嫌われる勇気」も含まれます。その勇気を持ち得たとき、あなたの対人関係は一気に軽いものへと変わるでしょう。

 

咀嚼して、消化するまでには時間も必要になるはずです。


対人関係のカードは常に「わたし」が握っていたのです。
承認欲求に縛られていると、対人関係のカードはいつまでも他者の手に握られたままになります。

暑すぎ、溶けそう。脳はもう溶けたな

僕自身のプロセスを振り返ると面白いからやっていることが、自然に学びにつながっていた。
ハードル競技も読書も
「遊びのなかに始まって」いたのだ。


たぶん教養とは、そうした自由な境地にたどり着くまでの、言ってみれば基礎力のようなものだと思う。土台を形作って作動させるための、エンジンやそれを動かすガソリンのようなものだ。

「身につく」というのは、つまり「忘れている」ということだ。


ぼく自身のコンプレックスが、一つ外れた瞬間だった。
それからは自分の意見を言ってみよう。本を読んでみよう。新しい可能性を考えてみようと
コンプレックスを少しずつ外していった。


知識やノウハウを蓄積した土台の上に「思考」や「創造」の力を接ぎ木しなければ、伸びてはいけない。
「許せ、手放せ、気にするな、考えるな、感じろ」


どんな世界にしたいか、どんな人生を生きたいか。仕事を考えるのではなく、世界観を考える。どんな仕事であれ目指す社会の実現には貢献できる。

 

できるならやるというその打算が人を夢中から冷まさせる。手法は打算的になっていい。


使命感とは、周囲の期待に応えることではなく、自分の役割に気づくこと。私ではなく私という存在を全体から眺める。

大事なのは自分を認めること。そしてその自分の扱い方を覚えること。

努力とは自分の延長線上に向けられる時に効果がある。


期待を裏切らないのではなくて裏切る勇気がない。他人の評価が高いのではなくて他人の評価を無視する勇気がない。みんなに好かれているのではなくて嫌われる勇気がない。

社会に認められている訳ではなくて本来の自分でいる勇気がない。

個性は予定調和や空気を破る。個性は人の心をざわつかせる。だから個性を認めるとは他人と自分は違うと分かること。

 


評価されるのはいつも自分の好きなことに従っている人。みんなが期待する人になろうとしない人。世の中が評価する人生ではなく自分がやりたい人生を。

 

がっかりさせようと全部ぶっちゃけたら、むしろがっかりされずに近くなる人がいる。
その人は人に褒められるために生きていない人だと思う。そういう人といると自分が出せるようになる。
自分をさらけ出せない人は夢中になれない。

だから必死で演じる。私がなりたい姿よりも、世の中に欲される姿を。

アドラー

人間にとって最大の不幸は、自分を好きになれないことです。
この現実に対して、アドラーはきわめてシンプルな回答を用意しました。
すなわち、
「わたしは共同体にとって有益である」
「わたしは誰かの役に立っている」
という思いだけが、自らに価値があることを実感させてくれるのです。


自己への執着を他者への関心に切り替えていくのです。

 

 

ニートや引きこもりは仕事がしたくないのではなく、労働を拒否しているのではなく
ただ「仕事にまつわる対人関係」を避けたいがために、働こうとしない。
核にあるのは対人関係。

考えるべきは関係の距離と深さ。


人は「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えた時、愛を実感することができる。

アドラーは、さまざまな口実を設けて、人生のタスクを回避しようとする事を指して
「人生の嘘」と呼びました。


あなたのライフスタイル(人生のあり方)を決めたのは、他の誰でもないあなた自身という事実。善悪でも道徳でもなく、“勇気”の問題。

「所有の心理学」ではなく「使用の心理学」
なにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか。

 


自己への執着を、他者への関心に切り替えていくのです。

「私」に執着している人は、すべて自己中心的です。


自分の人生の主人公は「わたし」である。
しかし「わたし」は、世界の中心に君臨しているのではない。

 

所属感とは、ただそこにいるだけで得られるものではなく、共同体に対して
自らが積極的にコミットすることによって得られる。

 

 

 

人生のタスクに立ち向かうことです。
わたしはこの人に何を与えられるか?

所属感とは、生まれながらに与えられるのではなく、自らの手で獲得していくものなのです。


もっと別の共同体があること。
特に、もっと大きな共同体があること。
「より大きな共同体の声を聴け」
という原則です。

 

関係が壊れることだけを怖れて生きるのは、他者のために生きる不自由な人たちです。

目の前の小さな共同体に固執することはありません。

 

どうすれば人は勇気を持つことができるか?

アドラーの見解はこうです。
「人は、自分には価値があると思えたときにだけ、勇気を持てる」


人は「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えたときにこそ、自らの価値を実感できる。


つまり、他者に働きかけ、
「わたしは誰かの役に立っている」と思えること。
他者から「よい」と評価されるのではなく、自らの主観によって
「わたしは他者に貢献できている」と思えること。

 

まずは他者との間に、ひとつでもいいから横の関係を築いていくこと。
誰かひとりでも横の関係を築くことができたら、ライフスタイルは大転換です。


いま、ここを真剣に生きる。


「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」

肯定的なあきらめ
“変えられるもの”と“変えられないもの”を見極める。

 

 

 

 

今のあなた自身に想像できる未来のあなたには限界がある。

最初は上手くできなくて当たり前なんです。
だから諦めずに、「やり続けること」が一番重要なんです。
元に戻ったら、そこで終わるのではなく、もう一回自分に言い聞かせる。
やってダメで、またやってダメで、またまたやってダメでも、ずーっとそれを繰り返す。

諦めずに、それでいいんです。


断続的でもいいから、あきらめずにやり続けること。少しずつでもできるようになっていきます。

更にやり続けていると、

それが新しい「習慣」や「癖」になり、ついには意識しなくてもできるようになります。
やっぱりできないというのは、単にやり続けていないから、途中でやめちゃうから
あきらめてしまうからです。


心のどこかに
「そうは言っても、自分には無理」という気持ちはあるかもしれません。
私自身そう思っていました。でも復活した今だからこそ言えるんです。

それは完全に間違いだったと。


視野が広がると、それまでは絶対に無理だと思っていたことも、「できるかもしれない」という希望が見えてきます。
それから、行動を起こし続けると、もちろん失敗もありますが、徐々に出来なかったことが出来るようになっていきます。


「今の自分に見えていないだけです。」

たくさんの情報を収集して、自分の考えに固執せず、いろんな人の考えや意見を読んでみてください。

今あなた自身に想像できる「未来のあなた」には限界があります。
そこを打ち破るためにも、視野を広げ、自分に見えないもの、自分の枠から外れているもの、情報をどんどん取り入れて理解し、行動するようにしましょう。

そうすれば、今でも到底考えられないような明るい未来が必ずやってきます。


みんなが殺到している分野ではなく、自分にしかできないことを知恵を絞ってどうにか見つけ出したら、と発想の転換をしたり、自分の見ている世界以外にも世界があるはずだという広い視野を持ってチャレンジする人もいます。

お金があったから工夫できた、ということはないのです。誰もが持っているちょっとした知恵の使い方がポイントです。

 

知恵の格差、発想の格差というのは存在するかもしれません。
しかし巷でよく言われているように
経済的な格差が格差を生んでいる構造ではないのです。


格差というのは数字や言説のマジックによって幻灯のように映し出される実体のないものです。

格差がある、という言葉で大衆を煽り立てる人が後を絶たないのは、大衆がそれに騙されやすいという性質を持っているからです。

格差のせいにしたい気持ちはわかりますが、格差のせいにしたら終わりです。

 

リーダーは完璧じゃだめです。どれだけ料理の腕がすごくても、たとえばお酒がダメとか、恋愛がまったくだめとか(笑)そういった隙が大事。
周りに支えてあげなくてはと思わせてこそ、真のリーダーですよ。


美しいからといってそのまま成功が約束されているわけでもなく、
美しくないことがそのまま敗北を意味するわけでもない。


一番手になることだけを想定し、その評価軸のみによって自分のことも他人のことも評価した挙げ句、落ち込んでしまっている人をしばしば見かけます。


しかし、自分の人生における評価軸の設定は完全に任意なのですから、自分が一番手に向いておらずキャラクターダンサー的存在のほうが向いているなと思ったら
そっちに舵をきればいいわけです。


自分を変えようとして、新しいことをして上手くいかないのは、あなただけではない。
誰でもよくあること。ですから絶対にやってはいけないことは

「上手くできない」「失敗した」=「ダメな自分」
と考えてしまうこと。


失敗するたびに嘆き悲しみ、自己否定していたら身がもちません。
そんなことをしていたら、千回失敗したエジソンなんて、命がいくつあっても足りませんよ。
新しいチャレンジをしていくということは、基本的に失敗するもんだと思っている。
数多くの失敗を経て、そこから学び、それが成功につながると理解している。
失敗するのは嫌だけど、たとえ失敗したところで、命をとられるわけじゃないし、
食料を絶たれるわけじゃない。

 

人生で後悔することの第一位は

「あんなに一生懸命働かなくてもよかった」

もっと自分の気持ちを表す勇気を持てばよかった。もっと自分を幸せにしてあげればよかった。

世間でうまくやっていくために
自分の本当の気持ちを殺してきた結果、可もなく不可もない存在に終わってしまったという無念。

学力と生き延びる能力はあまり相関はないでしょう。