今、一生懸命、積み上げようとしている実績や結果は、「成長した」と言いたいための根拠です。「それ」があると「成長した」「自分には価値がある」と言える。言ってもいい。
根拠を集めて「成長した!」と言える自信を持てたときに、心の中も充実すると思っているかもしれませんが、実は違うのです。
一時が万事。現時点で、どれほど強固に見える根拠も、いつなんどき無意味と化すかわかりません。そして、そんな危うい根拠を源とする自信は、いつなんどき崩れてしまうかわからないのです。
すでに「ある」ものに気づかず、「まだまだ」とがんばろうとする。でも、がんばった先に思い描いているものは、じつは今、すでにあるものとそう変わらないかもしれないよ、ということです。
幸せとは、「結果」という階段を上がっていった先にあるものではありません。階段を上りきる途中の「踊り場」に、すでにあるものです。結果と幸せは、関係ない。
だから、自分は結果を出さなくても大丈夫だし、幸せになれる。
・・・・っていうか、すでに幸せなのではないか?そっか、今が、これが、幸せなんだ。
こうした心のあり方になると、「先に幸せになったら、ほしがっていたもの以上の結果が自然とついてきた」ということも起こる。
だらだらしよう。なまけてみよう。
成長しようとすることはやめよう。代わりにぜひ、「ダラダラ」してみましょう。遊んでみましょう。そして「何もしない」をしてみてほしいのです。
成長することには、ストイックな努力、プライベートを犠牲にした働き、などがつきものです。そういうものをすべて脇に追いやって、だらだらしちゃうのです。ムダな時間をすごすのです。
成長するために精魂傾けてやってきたことを、適当にやる。なまける。サボる。こんなダメダメな生活にしてみて、どんな恐怖がやってくるのかを感じてみてください。
安心してください。
それでも全然だいじょうぶですから。
「自分はダラダラしてても、大丈夫なんだ」「遊んでばかりで価値を生み出さなくても大丈夫なんだ」ということに、ぜひ自分で気付いてみてください。
これはやってみないと、わかりません。
海の中で、必死に泳いでいる自分が、ゴールも見えずに、泳ぎ続けています。
んで、そこに「泳ぐのやめてみてください」と言っているようなものです。「泳ぐのやめたら死んじゃう」と抵抗してしまうでしょう。
いくら言ってもやめないでしょう。
でも、やめてみないと「あ、自分は浮くんだ」「あ、泳がなくても大丈夫なんだ」ということには気づきません。
だからここで、「やめてみる」「ダラダラしてみる」と言うのは、「勇気」が必要なのです。
そして、それをやってみたら、世界が180度変わるのです。
成長することを辞めるかわりに、これらの新しい、ありえない習慣を始めてみることが、今までの成長に代わる新しい成長だと思ってください。
今の自分では思いもよらぬ変化は、今の自分では思いもよらぬ習慣からこそ、生まれるのです。
自分を追い詰めてしまう人は「独りコント」を演じている。
成長しようとすることをやめて、なんか知らんうちに成長してしまった。そんな立場になったあなたから見ると、「まだまだダメだ」「成長しなくちゃ」「あれもこれも、できるようにならなくちゃ」とがんばっている以前の自分は、まるで「独りコント」です。
全然、なんにも問題ないのに、そのままの自分で大丈夫だというのに、何かしら問題を見つけては「いや、私ってやっぱりダメなんです」と、がんばってしまう。
その姿は、端から見れば、さながら何にもないところで滑って転んで、すったもんだしているコメディアンのようです。
あるいは必要のない「正義の味方」をしょっちゅう呼び出して、いもしない悪と戦わせているようなものです。
どうして、そんなに問題を見つけたいのでしょうか。
いくら「問題ないよ」「大丈夫だよ」といっても、何かしら問題を見つけてくるのですから、よほど悩みたがり、怒りたがり、自分を追い詰めたがりなのでしょう。
それならそれで、仕方ありません。僕が何を言おうと、悩み続け、怒り続け、自分を追い詰め続けるのも一つの方法です。
自分が本気で成長したいと思ったのなら、何をすればいいのかは、もう明白すぎるほど明白です。
★何事も問題視しないこと。
自分についても、周囲についても、「いいんだ~」「そうなんだ~」と、なんとかして解決しようとしないで、ありのままを受け入れることが、成長への早道です。
ちょっとネジの足りないような、今までバカにしてきたような人みたいになることなのです。
自分では無意識でも、人はいろいろな先入観や強迫観念に従って生活しているようなものだと思います。
失礼がないように、迷惑かけないように、嫌われないように、評価を落とさないように「いつも、ちゃんとしていなければ」・・・と、普段、どれほど気を使っていることでしょう。
でも、それは本当に必要?
そうではないのでしょうか。そんなに怖がらなくてもいいのです。
自分がやらなきゃいけないと思っていたことが、「意外と、そうでもない」ということに気づきます。
世の中の暗黙の了解となっているルールやモラル、失礼がないように、嫌われないように、迷惑をかけないように、と細心の注意を払ってきたことが、そんなにこだわらなくてもいいものだとわかります。
このように、さまざまな囚われから解放された心、なんでも許せる寛大な心は、びっくりするくらい軽く、自由です。
「いいんだ~」の範囲が広がると、自分を小さく閉じ込めていた枠を一気に取り払える、ということ。
ぐんぐん成長できる心というのは、こうした何の足枷もない自由な心なのです。それによってホントにダメになるかといえば、そんな心配はいらないのです。
「きちんとしなければ責められる」なんて、まるで強迫観念のように、自分で勝手に思い込んでいるだけ___一番、気付いてほしいのは、この点なのです。
だから、たとえば、いつもきっちりこなしている仕事を、少しルーズにしてみる。もちろん、「やっぱり私は、きちんとするのが好き」と思っているのなら、また、きちんとしたあなたに戻ればいいだけです。
とはいえ、すべて元通りにはなりませんよ。
なぜなら、いったんルーズにしてみたところで、あなたは、もうわかっているからです。
「きちんとするのも好きだけど、きちんとできないことがあっても、いいんだ、それも楽なんだ」と。
人間、調子が出ないときもあれば、機嫌が悪いときもあって当然であり、そんなときにはムリをしなくても大丈夫なんです。
周囲に気をつかわず、もっと気分屋でいいんです。
もう、方々に気を使って、八方美人になる必要もありません。
誰からも気に入られるような、平均的でつまらない人間からも卒業です。自由にのびのびと、好きなことだけ、していけるのです。
あなたが、急に「きちんとする」ことをやめたら・・・・・・
周囲の人は、きっと面くらうでしょう。「〇〇さんったら、どうしちゃったの?」と。
けれどもそれは、ネガティブな意味での“びっくり"とは限りません。
むしろ、「最近の〇〇さんは、ゆるくて付き合いやすい」と思われているはずです。
ひょっとしたら、今のあなたは、周囲の人の目には「ちゃんとしすぎて、きゅうくつな人」に映っていたかもしれません。
その一方で、「ちゃんとする」ことをやめたら、あなたを批判したり、距離を置く人も出てくるかもしれません。
でも、それなら、それでよし、なのです。
あなた自身は、自分の中の「いいんだ~」の範囲を広げたことで、心にはまっていた枠を取り払い、成長しました。
それによって、あなたは周囲の「ちゃんとすることをやめられない人たち」の枠を、イライラさせながら、刺激している可能性もあります。
逆に、ちゃんとしない姿を見せることで、彼らの「いいんだ~」の範囲を広げてあげることもできるのです。
まぁ、自分のスタイルを嫌う人がいるのなら、仕方ありません。
今の自分は自由で、自分らしくて、幸せ。それを嫌う人に好かれようとする必要などありません。
むしろ、合わない人からは嫌ってもらって、早めに遠ざかってもらったほうがいいのです。そして、自由にのびのびと付き合える人たちと一緒に、楽しみながら成長していけばいいのです。
あなたも、ぜひ自分の常識外のことをする人の真似をしてみてください。今までは、「そんなことをしたらダメだ」と思って、やらずにきたことを、思い切ってやってみる。
今までは「これはやっておいたほうがいい」「やらないとマズい」と思ってやってきたことを思い切ってやめてみる。
こうして、自分の中のタブーを一つひとつなくしていくことは、自分の枠を広げるということ。つまり、それだけあなたという人間の可能性が広がるということです。
こうして、いろいろやってみるのは、あなたにとって常識外で、「それだけはない」と思うことほど理想的です。
同僚や友人、パートナーや親、子供など、周囲に「絶対にありえない」「あれだけはやってはいけない」「ああなったらおしまいだ」と思う人はいませんか?
あなたの周りにいる「ありえない人」は、いわば、あなたの知らない世界を知っているんです。
そして、あなたの可能性を広げてくれる別世界を、あなたの目の前で身をもって見せてくれているんです。
その人こそがヒントだと考えてみてください。「それだけはない」というのは、言い換えれば「私は、その世界だけには入らない!」と決めている、ということですよね。
どんな人生を選ぼうと自由なはずなのに、「これはなし」「これはあり」と、最初にいろんなものを除外した狭い選択肢の中から、生き方を選んでいるわけです。でも多くの場合、除外したものの中に「答え」があるのです。
冒険ものの映画や小説でも、「絶対にここだけは行きたくない」という道の先に宝物が見つかったりしますよね。
「魔の道」にしか見えないところに、大きなヒントがあったりする。これは人生でも同じようなものだと思うのです。
だから、「それだけはない」という世界に、一度飛び込んでみてほしいのです。きっとすぐに、「なんだ、ここまでやっちゃっても、大丈夫なんだ」と気付くことになるでしょう。
その体験が積み重なるほど、「立派にならなくちゃいけない」「がんばって成長しなくちゃいけない」という思い込みから解放されます。「どうしても、もともといた世界に、あれほどこだわっていたんだろう」と、不思議に思うでしょう。
タブーの世界、「それはないわ」に飛び込んでみる勇気が、このように、いろいろと大きな気づきを連れてきてくれるのです。
「ありえない人」が、あなたの師匠
自分から見て「これだけはありえない」という人は、自分の師匠。
そうお話をしたら、「それは、その人を反面教師にするということですか?」と聞いてきた人がいました。
「人の振り見て我が振り直せ」的な話しのほうが、わかりやすいのかもしれませんが、ちょっと違うのです。
反面教師とは、「その人を見て、その人のようにならないようにしよう」というものですよね。
それはそれで、生き方や信念の問題ですから、かまいません。
ただ、反面教師を設定した瞬間に、自分の中に「この人のようになってはいけない」というジャッジ(否定)が生まれます。
すると、自分の中にもある一つの性質、そして選択を否定することになります。自分をどんどん狭いところに追い詰めることになります。
でも、じつは、あなたは「絶対にこれだけはやらない」と思っていることすら、やってしまっても大丈夫なのです。それを拒否してしまっては、そうなっても大丈夫という自分の可能性の一つひとつ否定すること、自分の枠をぐっと狭めることになってしまうのです。
「そんなの私らしくない。キャラじゃない」ということ、そう信じさせられていることを覆すのが、怖いだけ。つまり今の自分の枠に収まっていたいだけなのです。
こう考えてみてもやっぱり、自分の枠を広げるというのは、「許す」ということです。今まで許せなかった人の行動を許すと、「この人のことを自分は許した。ということは、自分もそれをやっても大丈夫なんだ」と、自分を許すことにもなるのです。
こうして自分の枠は広がっていくのです。これが、「許す容量の大きさ」です。
だから、ここで一つ勇気を出しましょう。
絶対にありえない。
これだけはやってはいけない。
こうなったらおしまい。
そう思う人の行動をあえて真似してみて、自分の枠を大きく広げてください。