とりあえず酒でも飲めばいいじゃない。

楽しいとか、つまらないとか、うまくいくとか、いかないとかということで、この職業を捨てることはないし、それによって自分の仕事を計ることもなく、とにかく続けること。

 

否定的な批評を行うことは容易である。なぜならば、どんなものでも、じっくりとよく見れば欠点を見つけることは常に可能だからである。もっぱら欠点に注意を向け、価値あることを無視することはしごく容易である。
しかし批評の主たる魅力は、批評されているものよりも批評している者のほうが偉く見えることである。批評することは極めて容易なので、それはしばしば、他のいかなる方法によっても人の興味を引くことができない凡庸な輩の避難所となる。

 

基本的に、「幸せ」っていうのは、自分が自分をいかに楽しませ、幸せにできるかだと思います。家族の団らんや家族があるから苦労も喜びもある…そのお気持ちも分かりますが、それを手に入れても、自分が内面から「幸せ」と思っていないと、不満の塊になるだけです。「ないものねだり」で不幸な気分になるのもいいですが、そういう不幸に浸っている間は、人生も上手くいかないもの。生きて動ける間に「したいこと」「やりたいこと」を目いっぱいやって、楽しく過ごしましょうよ!明るい気分でいれば、良いことも舞い込んで来るものだと思います。あきらめて日々、腐っていないで頑張って下さい!

 

辛い時こそ明るいほうに無理にでも目を向けるようにするといいですよ
私はそう思って生きています
辛い現状は変えられないどうしようもありません
それならば辛い現状でもできる明るいこと楽しいことに少しでも目を向ける時間を長くするようにするといいですよ
趣味に没頭してみたり、綺麗な花を買ったりクラシックを聞いたりどんなことでも良いのです
少しでも明るい気持ちが持てる時間を意識的に作り出すことはとても大事です
あと生きている間に何が学べるか考えてみてはどうですか?
なにかひとつ向上心が持てるものを持つだけでもずいぶん変わってきます
出会いは何歳でもあきらめないで求めていったほうが良い結果が得られると思います
あきらめてしまうと出会いも去っていってしまいますが根気よく探していくことはとても大事です
この世には再婚している人だってたくさんいます
そう思うと年齢は関係ないと考えたほうが良いですよ
今自分の環境や現状がゲームのアイテムだと思いそのアイテムは大事にしたままで新たなアイテムをまた探し続けると思うと良いですよ
変えられない現状にばかり目をむけて落ち込むよりずっと明るい気持ちになれます

 

私も同じ。笑いながら一生懸命生きていれば、いつか報われるんじゃないかなって思ってましたが、現実は…虚しい毎日を送ってます。
傷の舐め合いになるかもしれませんが、自分と同じ考えの人が居て少し気持ちが楽になりました。
私の周りはもうみんな結婚していて悩みを聞いてくれる人も居ませんので。

それでも前向いて生きていかなきゃいけませんね。毎日炊きたての白いおまんまが食べれれば幸せなのかもしれません…。
一緒に頑張りましょう。

 


1年近く前のトピですが、
心に響いたのでレスしたいと思います。

私も、人生 楽しくなくて 悔しい です。

無気力で依存的な私では、何もうまくいくはずはない、いいものも引き寄せることはできないだろうな、とわかっています。

そしてトピ主さんのお話を読んでいて、共感した部分もあり遠くから自分を眺めているように感じたので、
想った事をレスいたしますと、

・幸せになろうとあがいている。
・幸せになろうと一生懸命頑張った
・前に進むしかない

どれもまっとうなことのようですが、何か、力が入り過ぎてかえってうまくいかないかなとも思いました。(自分がそうなので)

幸せは「頑張って」なるものではなく、目の前の事を「誠実に向き合って感謝を持って暮らす」ことで
「いつの間にか幸せになっていた」そんなものではないか、と。

「前に進む」のは「目の前の階段の一歩を大事に」上がることを重ねることでいつの間にか進む気がします。
がむしゃらに進むのではなく、味わいながら穏やかに進みたい。

そして過程で起きる都合の悪いことも、気づきのためのシナリオだとも思うのです


生きる意味なんて誰も皆等しく持ってない。みんな何か錯覚してるだけて、命の価値など蚊も人間もたいしてかわらない。だからこそ、死ぬまで面白おかしく生きればいいんじゃねーかな。


捨て身になっていないからだよ
カイジでも持たざる者は捨て身になった時が最強というようなことを言ってただろ

少しでも興味があったら1回はやってみる
つまらなかったらつまらなかったでネタ話にする
家にいて2chしてても仕方ないできるだけ外に出る

 

いじめに合う君たちへ。
今一瞬の安心のためにガマンしてやり過ごしてると後悔するぞ。負け犬根性が染み付いて性格捻じ曲がる。気力がなくなって、この先訪れるどんな戦いからも戦わずして逃げるようになる。
そうなったら、本来の自分を取り戻すのに数十年単位で人生を無駄にするハメになるからな。


なんでもやってみるだと思う。
失敗談が一番ウケがいいけど。
下らないことでも経験してるだけで話の深さが違う

 

勉強なんかしても意味ないからやめとけ。必要になったら、その時にすればいい。
女作ってウェーイしてた方が大企業にも入れるし社会もそういう人間を必要としてるんだ。机上の勉強しかできないコミュ障陰キャには生存は許されない。ここ(現代日本)はそういう世界だよ

身の丈を知る だったな俺は

あんまり頑張り過ぎないことかな・・・頑張る程伸びるとは限らない
それと臨機応変というか権威者の言葉に左右されないこと
あとオリジナリティな生き方を模索中すること

今という時に適応しすぎない。時に無視するくらいでもいい。

誰に何と言われようと、自分の幸福を定義できるのは自分しかいない。そして自分が頑張ろうと思ったことをしなかった事実が招くのは、単純な、わかりやすい不幸だ。
結局は何を頑張るかを自分で規定することそのものが価値で。あり、自分で設定することができれば、結局大体のことは解決する。

自分の成長だけを見てないと、かえって成長できない。周りのペースに合わせようとすると、かえって先に進めない。これは自分が要領が悪いと考えている人ほど、心に刻んで欲しい考え方だ。だから周りの目、外的な基準、人との競争は、自分の中から捨て去ったほうがいい。自分が思考し続けることが本当の価値なのだ。

自分の成長を判別するのは自分の内的な評価であって、外的な評価に依存しないことを知っている。だから、外野からいかに批判されようと、基本的な対応は決まっている。言葉は悪いけど、「知るか、バカ」ということだ。

 

 

 

よし、無事に早起きできた。本日の課題のうちの一つをクリアしたぞ。
 最近はかなりやる気はなかった。しかし、本日から、また少しづつがんばっていけそうな気がするぞい。生きるのはめんどくさいけど、それでも今日は少しがんばれそうな気がする。うん、たくさん休んだものね。がんばっていきましょう。

 我をよりどころとする人間が仏法に遇う。そこには法に出逢うことができた深い喜びがあり、受けがたい人身を受けたという大きな感動がある。
 しかし、いつしか心が怠惰となり、感動を失ってはいないか。
 厳しい暑さの中にあっても、謹んで正法を聴いていきたいものである。


 合格点を高く設定している人ほど、自分を一向に認められずに、苦しむ。
 その裏側には、ちっぽけな自分を認めたくないという気持ちがあり、「自分はこんなもんじゃない」という見栄や意地、希望なんかもあり、そんないろいろが、ぐちゃぐちゃになって苦しんでいるんですよね。

 でも、そろそろ認めてしまってはいかがでしょうか。
 今の自分を認めるために高い目標を設定することと、今の自分を認めている人がさらに高い目標を設定することは、まったく違うのです。

 あなたは「こんなもの」なのです。

 で、「こんなもの」でも、大丈夫なのです。


自分を受け入れ、認めるには、高く設定しすぎた合格点を、まず、ぐぐっと0点ぐらいまで低くしてみること。

 これは、成長しようとがんばってきた人、高い目標を定め、そこに到達することが「成長」だと思ってきた人からすれば、そうとう勇気のいることでしょう。
 でも、とにかく合格点を下げること。そして、最終的には「合格点」「結果」「目標」といった基準ですら、なくしてほしいと思います。

 あなたは「こんなもの」。


___向上心など捨ててしまえ。

「え、自分は、本当にこれでいいの? そっか、いいんだ」
そう思えた瞬間から、びっくりするような成長が始まります。

 となれば、「成長したい」なんて素晴らしい向上心は、捨ててしまえ。あなたに必要なのは、がんばることではなく、今の自分を受け入れること。
 成長したい、向上したい、という裏側には、つねに「ダメな自分」という「前提」があります。
 でも、本当は、「ダメな自分」が存在するのではなく、「ダメな自分がいる、と思っている自分」がいるだけなのです。

 

 

 

なにか新しいことをやりたいってのはあるよな。こうなんか開けていくイメージのことさ。このままだと先がつまってきている感じがある。うーーん、なんか楽しくて、先が開けているもの、・・・・・・・言葉にすれば、それは“希望"ってことじゃないのか。

希望、そうか、希望が足りないのか。。。。

しかし希望ってなんだろう?

俺に希望はないのだろうか。希望とは若さだと思う。

若さとはなにか、、、、たぶん、俺にはその若さというものが足りなくなっているのだろう。若さがつき欠けているのだと思うんだ。

子供をつくればいいのだろうか?


今の俺には無理だから、これはパス。


何かを生み出したい、若い人と交流したい。


そんなところか?


なんか、こう「仕事」がしたいって感じなんだと思う。社会とのつながり。

社会とのつながりを通して自分を拡張したい。そんな欲求だろうか。チャレンジする欲求。なにかにまっすぐに取り組みたい欲求が俺の中にグツグツとして存在している。それを解放してやりたい。

しかし、そのための何かが見つからないでいる。どうすればいいかなぁ。考えるより試していきたい。今、また少しずつ力が溜まってきたということなのだろうか。社会にふれて。

もっと面白いことがしてみたいな。

 

 

 

ごろごろ〜

やっぱ沈んでいる時はどうしようもなくてさ。これから先の未来もけっこう暗そうで・・・

しかし、そんな未来のことなんて今は考えなくていいんだろうな、結局は。

どう生きればいいのか、さっぱり分からないまま。そんな迷いも見せずに、ぼくはテキトーに生きるしかないんだろうなぁ。こんな感じで。
はたして何をすればいいのか?この先について考えてみる。なにも思いつかない。どうすればいいのか。


ああ、でも商売やりたい。商売というか、お金をころがして、なんかしたい。なんか面白いことをしようじゃないかって思っている。そんな恥ずかしいことを考えている。なにしようかな。どうしようかな。そんなことをずっと言いながら十年くらい経っている。そして結局なんかよく分からない感じになってしまっている。ああ、どうしよう。なにもしなくていいと思う。けど、それだと暇だしなあ。

うーーーん。


なんか楽しいイメージをまといそのまま暮らして生きたい。そういうことだろ。っで、っどうする。これから。


バトミントンやらフットサルもやってきた。一年間。とてもいい経験だったと思う。だったということは自分の中では、もう過去形になっている。次になにか新しいことをやりたいと思っているんだ。しかしどうする。なにする。


個人的には個人で商売をやりたいと考えている。自営。せどり。転売。でもさ、金稼いでどうするの?意味あんの?って自問自答。うん、意味はほぼない。今でも十分じゃね?って思う。そう考えると何も手に付かない。別に何もせんでもいいじゃん。って考えるからだ。

しかし、暇になる。なにもすることがないからだ。そう暇なのだ。

うーーん、じゃあ、結婚でもすれば?

うん、そんな感じでやってみればいいんじゃね?死ぬまでの暇つぶしなんだし。え、それじゃあ、相手が可哀想だって?うん、知らないよ。
いや、そもそも俺にできんの?いや、できない。できないというか、そこまでやるモチベーションがない。これからもきっと出ないだろう。いや、これからのことは誰にも分からないだろうけど。

こんな自問自答を繰り返してここまでやってきたのだった。
しかし、もう何をがんばればいいのやら。おれには分からない。何もがんばれないなぁ。自分のためには。もういいかなって。そしてここにきて結婚できないと、もうなんか、なんのために生きてんだってことになる。何かのために生きたいのか、いや、別に何のために生きなくてもいいんじゃね。ただ生きているだけでそれでいんじゃね。問題は暇ということなんだけれど・・・・・・。

なにをしようかなぁ。なにもないなぁ。何もしたくないなぁ。ゴロゴロ。

ウメハラ理論

同じところに留まっていては、負けだ
昨日より今日、今日より明日、ひとつづつでいいので変わり続けること。大きな成果や成長であっても、煎じ詰めればそれは小さなひとつの成長の集合といえます。

視点を高くする
ほとんどの人が場面ごとの最適解を求める。僕は場面全体を見る
成果は各場面ごとの勝ちの総計ではない
視点というのは方向性や理念のようなものだと考えればいい、ストーリーともいうかも

場面においては失敗したって構わない。視点さえしっかりしていれば
必要なリスクも取りに行けなくなる

 

劣勢になったらとりあえず一歩引く。態勢を整える。その後のことは置いておけばいい。とにかく一度引く。広い視点で状況を見られるようにする。そうするとパニックになっていた感情がだんだん落ち着いてくる。その後のことは、それから考えればいい。

目的は試合を壊さないこと。試合にはポイントがあって、ただ闇雲に全場面で勝とうとするのは無理がある。今できることはなにかを考えること。不調なときだからこそ、確実に出来ることは確実に積み重ねていく。見なければいけないものを見ているのが集中している状態。
態勢を整えると、逆転の芽が出てくる。負けるときも自分の闘い方で負ける。

弱い人ほど目先の損が我慢できない。状況を考えず前に出てしまい、自分のリズムを崩すきっかけにもなる。

成長とは変わること。

勝ちだけを意識した取り組みでは強くなれない。成長しながら力をつけることができれば、自分が楽しいし、いい結果も生まれやすい。だから成長は義務ではなく、楽しく生きて、この時代にコースアウトしないためのツールとして考えればいいのではないか。

本当はもっと前に出て戦わないといけないところで、ディフェンシブに戦ってやられているというのは最近多い。
コースアウトする可能性があったとしても、よりよい走りをしようと思って前に出て戦う。そのときはダメだとしても、成長(変化】を続けることで、次の試合、次の試合で良い結果を出すようになる。このような姿勢でいることが、最終的に自分の身を守ることになるのではないかと思う。

行動力がない人には共通点がある。リスクと捉えるものが多すぎること。

読みや直感は、行動に移さないと鈍る。
動くことで自分の能力がフルに発揮されることを強いプレイヤーは知っている。

真剣に取り組むのであれば、正しく休むことも取り組みの大切な要素になる。

成長の実感も受身の理解だけでは足りない。外からはなかなか評価されない、評価してもらえない内的な成長を、どれだけ意識できるかで、モチベーションは大きく変わってくる。

小さな気づきを見逃さずに意識できるようにする。

成長できたとしてもむやみにハードルを上げない。
目的は成長のループを安定して継続することにある。刺激に対する敏感さを持つことは成長の大きな助けになる。成果そのものも大切だけど、それを正しく意識できることは同じくらい重要だと思ってほしい。
成長のループを続けていると、ついついハードルを上げてしまいそうになる。慣れてきたらハードルを上げればいいと思っていたが、最近は、慣れてきてもおいそれとハードルは上げてはいけないな。
ハードルを下げることは練習の質を上げることになる。丁寧にやるというのはスランプにも効く。
安定した継続がどれだけ価値があるか。

大切なのは普段の取り組みだ。成長のループには自然なリズムがある。勝つだけで人生は変わらない。情けない自分、ズルい自分はチャラにならない。

負けることよりも発見がないことのほうが怖い。
考えることと実行すること。お互いに補い合う関係で、一方だけでは不十分だ。周りの評判や評価を、何の疑問もなく受け入れて、それをさも本当のことのように思ってしまう人がけっこういる。限界がどこにあるかそれは誰にも分からない。

成功するかは別にして、やりたいのであれば、やるべきなんじゃないだろうか。
いわゆる才能や適性というのはそれほど当てにしないほうがいいのではないだろうか。

才能がなかったらやらない、あったらやるというのは「成功するならやる、失敗するならやらない」という考えに近い。実利的な考えで、僕には違和感がある。
才能や適性など当てにしないで、成功や失敗も考えないで、好きならとにかくやってみればいいのではないか?

結局、苦手なことから目を背けていると自信が持てない。苦手に挑戦していけば、たとえ上手くできなくても、挑戦していることで自分を肯定的に捉えることができる。それが自信になる。

勝ち続けるためのひとつの鍵があるとしたら、それは自立心のようなことかもしれない。自分の内側にある基準で物事を判断し、その判断の責任を負う。いずれの考えも、そんな共通点を持っている。

そういった感覚を持って日々の取り組みを続けた先に、ああいった「普通」に通ずる何かがあるのかもしれない。

ゲームであっても、強くなるということの先に人間的なふくらみがなければつまらない。結果の世界だからこそ過程を。真剣の中に遊びをの感覚を。そして、強さの先に優しさを。そんなことをどこかで感じながら、日々取り組んでいる。

 

 

これでいんじゃね?

人生うわっつら。
夢中で生きる。

なんとなく楽しんでいたら、いつの間にか成長していた。
進むべき方向などない。ましてや目標や夢なんてものはない。
ただ、なんとなく楽しんでいたら、いつの間にか成長してしまっていた。そんな、ゆるゆるな成長論です。

「がんばっていきましょう」と唱える人からは、「何をふざけたことをいっているんだ、こいつは」と言われることでしょう。
 おっしゃるとおりです。でも、もし、今までそう思って必死になってやってきたのに、思うような結果が出ていないとしたら、ちょっとだけ耳を傾けてみてください。

今の自分のままで、なんとなーく、ゆるゆる、ふわふわと楽しんでいたら、いつの間にか、ここにたどりついていた。その場所は、びっくりするくらい居心地がよくて幸福感に満ちていた。そんな「なまぬるい」世界です。


成長しようとがんばることを、やめてしまう。とそこから思いも寄らぬ成長が、始まります。

「成長に対する執着」を手放したときに、思いも寄らぬ成長が手に入るのです。

「自分には何かが足りない」というのは、はっきり言って、あなたの勝手な思い込みです。「自分はすでに十分足りている」と気づくこと。
「あっ、自分はこれでいいんだ」と。

がんばらなくちゃと思うほど、身近なことがおざなりになって、大切な人をちゃんと大切にできなくなっていく。こんな状況は、どこかおかしくて、本末転倒ではないか。

まだまだ、と思ってやってきたけど、今の自分でも、そんなに悪くない気もするし・・・。

がんばってやってきて、今、こんなもの。・・・なら、こんなもので、もう、いいんじゃないか?

と思ったわけです。

「今の自分でいいことにしよう」「よくもないけど、そんなに否定するほど悪くもないぞ」と。そう思えた瞬間、急に気が楽になり、人生に対する姿勢が一気に緩みました。

 

楽になる方法を探る。

可能性を広げよう。
生きている限り、楽になる可能性は無限にあります。楽になるための思考を身に付け、楽になるための行動を身に付けること。そのために幾つかの事を学ぶ必要があります。もし生きたまま楽になれば、死ぬ必要はなくなるのです。

常に死にたいと思っている人でも、24時間ずっと死ぬことだけを考えて生きているわけではありません。映画を見ていたり本を読んでいたりご飯を食べている時や、楽しいことを考えている時には死ぬことは忘れています。そこに可能性があります。

人生で、少しでも楽しいことや、可能性を広げられるような考え方を取り入れること、自己肯定感、自己受容感を持てるような働きかけを自分が自分自身にすることでフォーカスが変化していきます。

死ぬことにフォーカスをするのではなく、楽に生きることにフォーカスすると、人生の見え方が変わってきます。

楽になるための可能性はたくさんあります。どの道に進んだとしてもやり直しはききますが、死ぬことだけは唯一、可能性を閉ざしてしまいますので、できるだけ避けるべきでしょう。死も楽になるための可能性の一つではありますから、それをあなたから取り上げることはできません。最終的にはその可能性もあってもいいと思います。

しかし、まずは死ぬことよりも「楽になるためには何をするべきか」という考えを身に付け、それを実行することです。

窓にはアンパンマンの小物が置いてあった。

その先の景色を見てみたいから。勘違いでも進め。

どうせ気に病むだけだ。何を考えたって。
どんな未来であろうとも。お先なんて真っ暗さ。でもどう進んでもそうであるなら、気は楽だ。不幸でなにが悪い。その役俺が引き受けるぞ。イヤだけど笑

どうせダメでもともとの人生だ。迷わず進め。迷っても進め。未来を見てみよう。だから生きるのだ。なにもしないくてもいい。生きることの作家になります。価値なんてなにもなくていい。自己満足でいい。なにも成さない、なにも残せない人生だとしても大事なことは天寿をまっとうし、命を生ききることなのだ。おれはそう定義する。

しかし気張っちゃいけない。この世界はただ通り過ぎるだけなのだから。何もないところから何もないところへ。何もなかったかのように。めぐる命だから。

生きていることが辛いならいっそ小さく死ねばいい。

死ぬ気で生きろ。どうせ死ぬ。


ちょっとあった仕事を放り投げて、サボることにした。

トンネルの下に車を止めて休んでいた。一服つけていた。
その後、お昼でもあったので
あのおばさんに教えてもらった店に行こうと思いつく。

店の名前は「シェフズキッチン」

んで車で行ってみたら、駐車場が満車で止められなかった。だからすぐに諦めた。でも外観はおしゃれで暇そうなおばさまたちが多くいそうな感じであった。金曜昼は満杯だったか・・・

んで、気を取り直して、そうだ、王将に行こうと思った。

そこで女池から桜木、桜木から弁天を目指してメインストリームから外れながら車一台分ほどのせまい路地を車で走行していたら、突然謎の店が表れた。謎というか、目立たない近所の人のための店という佇まいである。カレーハウスという店だ。
面白そうなので入ってみた。そしてカツカレーを頼んだ。

店内はカンター席が5つほど、四人がけテーブル席が二つとこじんまりとした、しかし落ち着く雰囲気であった。観葉植物とか子供ためのものかぬいぐるみなどが置いてある。窓にはアンパンマンの小物が並んでいる。

 


以後つづく。