ただ流れに乗ればいい

わがままで、身勝手で、つねに自分の都合を優先させるような人間になること。キャリアの長さ、実績の有無、すべて関係ありません。
「先にそのように振る舞うことで、本当にそれに値する人間に近づくということ?」・・・そうでもありません。
気づいてほしいのは、たった一つのシンプルな事実。
 あなたは「すでに」、そのように振る舞っても大丈夫な人間だということなのです。
 忘れていた自分の素晴らしさを「思い出す」ということだけですよ。

人生の濁流に飛び込む勇気

 成長なんて、放っておけば自然としてしまうもの。
 でも、やっぱり、つい成長しようとがんばってしまう。がんばることが普通になっていると、がんばることをやめるのは、案外難しいものです。

 どうやったって成長してしまう流れ、いつの間にか大きな成長を引き寄せてしまう流れは、じつは、常に自分の周りにあります。
 だから流れに乗ればいい。
 あくまでも今の自分が見えている範囲内で、その範囲に収まる程度の成長を求めてがんばってしまう。
 
 もう、いいです。
 もう、がんばりません。踏ん張りません。目標も要りません。
 もうぜーーんぶ、行き先もわからない流れにお任せします。

 という、「死んでもいい」ぐらいの大損をする覚悟、それが「手放す」です。

すると、一気に濁流にさらわれます。想像もつかないような混乱もします。でも大丈夫です。というのも、人間の身体は水に浮くようにできているからです。浮き上がろうとして、もがくと溺れてしまいますが、思い切って力を抜いて流れに身を任せれば溺れません。
 これはあながち冗談ではなく、つまり、あなたはもともと流れに乗ることができるようになっているのです。

 その濁流がどのようなものであるかは、人それぞれです。
 おおきなチャンスや転機を想像するかもしれませんが、そうした明確なきっかけが訪れるとは限りません。その流れは、だいたい「大きな損をしそう」な流れだと思っておいたほうがいいです。
 ただ、大損する覚悟をしたときに、人は乗るべき大きな流れに乗るんだと考えておいてください。

 

人生イロイロ


人生で一番輝く時期が青春なんだよ
だから必ず学生時代が青春ってワケじゃないんだ
学生時代が過ぎたからって青春が終わったなんて言うなよ
まだ輝いてないと自分で思うなら、これからがお前の青春だ!

 

どっか遠いところに行って第二の人生をスタートさせろ
他人の目なんか気にするな。過去やりたかったことを今からやってもいいじゃないか
どうせいつか死ぬと思ってやりたいことを思い切りやってみろ

 


引きこもりの方にオススメしたいのは!!

・一人ドライブ

です。
自室で閉じこもるのも気持ちはわかるけど車は部屋が自由に動く感じなので自由気ままに自分の行きたい所へ行きゆっくり外の空気をすえてリフレッシュします。他人とも関わらなくていいのでいいですよ。毎日一人ドライブしてれば外出に慣れてきます。どっかに車を停めて寝ながらネットでもやって下さい。引きこもってるのと変わらなくダラダラ過ごして下さい。部屋にいるよりいいですよ。

高校も不登校だったし、恥ずかしながらそれから30になるまでたびたび引きこもりましたよ。

自分が嫌で気持ち悪いけど、なかなか変われない。忍耐力がないし、さらに嫌いになっていく。
でも、人からは嫌われたくない。こんな気持ち悪い自分だと思われたくない。ますます人の前で何もできなくなる。引きこもる。本当にループでした。

家でひたすらネットで会話してましたよ。自分のしたいように。ネットですらしんどかったら、すぐに終わりにして。でも、そんなネットでの関わりでも、心が救われたことが多々ありました。

30超えて、そんな何もできない気持ち悪い自分を「ま、いっか。気持ち悪くても」と受け入れられたときに、めちゃくちゃ楽になりました。

言いたいことが言えます。やりたいことができます。人の目にはもう負けません。


引きこもりの人、部屋はキレイにしてる?
私、今も引きこもりなんだけど、前は片付けが面倒で、ゴミだらけ埃だらけの部屋だったんだ。
窓もカーテンも開けなくてどんよりした感じ。
そういう生活してたら鬱とノイローゼになって悪い方向ばかりに行ってね、間違いなく悪い気の中で暮らしてたと思う。

部屋はキレイにした方がいい気が入って幸せになれる、とテレビで見て、半信半疑で思いきって掃除したんだ。
整理整頓してゴミを捨てて、窓やカーテン開けて掃除機で埃吸って…。
最初は腰が重くて面倒だったけど、やるうちに気分がのってきて楽しくなってきて気持ちが明るくなってきたんだ。
「ゴミや埃の数=悪い気の塊」って本当だと思ったよ。
空気も気持ちいいし、前と全然気持ちが違うんだ。
まだ引きこもりから脱出した訳じゃないけど、前は死にたいとしか思えなかったのが今は頑張って外に出てみようかな、と思えるようになってきたんだ。
それだけでも私にとって大進歩なんだ。
キレイにすると運気が良くなる神様が入ってくるんだって。
少しでも引きこもりから脱出したいと真剣に思ってる人は、まずはここから頑張ってみたらどうかな。
私も頑張るから。
一緒に引きこもりから脱出しよう!


せっかく頑張って働いてみても筋力落ちすぎてて腰痛になったり
病気しがちですぐに辞めて「動けない」の悪循環です。。

病気理由じゃなくても「職場恋愛してる人達がいて面白くない」
「自分より動いてない人が許せない」という理由で辞めたこともありました。
毎日動かずゲームして、ご飯やお菓子をよく食べ、部屋は足の踏み場もない。
心も体も弱ったままでどうにもなりません。


二十代、四年ほど引きこもりでした。仕事を無理しすぎたことと家庭環境で精神壊しました。

鬱と強迫障害でやる気もおきず、外に出られずほんとに地獄でした。薬飲んでもつらかった。自殺しようとして精神科の病棟にも入れられました。

ある時、ふとこのまま一生自分を責めて辛くて生きていくのイヤだなって心の底から思い、外にお茶しにいくようにしました。だんだんスーパーで食べたいもの買ったりするようになり、そしたら外にいられる時間が少しずつ増えて、簡単な喫茶店のアルバイトをし始めました。
初めはバイトもつづかなかったけれど、だんだんやりたいことややれることが分かるようになり、楽しい職場を見つけました。もちろん精神科にかかりながらで辛いときもありましたが、辛かったらすぐに休んで次のしごとなんかいくらでもある!と自分にいいきかせました。

今は週に四回一日八時間でパートしてます。
こつこつやってたら化粧品売り場を任されることになって、可愛いポップを買いたり、お客様にメイクのアドバイスしたり。
確かに昔みたいな責任のあるバリバリの正社員はもうできないですが、今の状況に満足してます。
そうして暮らしていたら、大好きな人に出会い、先月結婚しました。まさか引きこもりだった私が結婚できるなんておもってなくて嬉しくて大泣きしました。
昔引きこもってたことや鬱だったことなんて何でもない、むしろそれを乗り越えた立派な人生だと彼は言ってくれて今楽しくくらしてます。

人生、自分で捨ててしまわなければ本当にいいことが待っています。
頑張りすぎず、最低、トイレと呼吸だけできてれば良い!くらいに考えて心穏やかに生きていきましょう!
外は怖いことだらけだけど、怖いことを耐えていくうちに
嬉しいこと、楽しいことがちょっとだけだけどあるんだって実感出来ればいいと思う
症状が思い人はまず家事や散歩からでいいと思うけど
出来る人はとにかく期間を決めて(なるたけ長く)バイトしてみるといいよ
最初は辛いことばっかりでも、長くやるうちにいろんなことが起きて、自分に自信をつけてくれるようなことが出てくるから
私の場合は容姿がコンプレックスでヒキだったけど、とにかく一年!絶対やめない!とバイトしていたら
お客さんに容姿を褒められることがちらほらあったよ(殆どが気のいいおばちゃんだったけどw)
だから今は道すがら容姿を貶されても褒められたことがあるから昔ほど気にならない
他人は怖いけど、その他人を怖くないようにしてくれるのも他人なんだと思った
前職うつで辞めてから、ひきこもりです。
一時は家で息してるだけ!みたいな状態から数年かけて、徒歩圏内に出れるようになってきました。

最近、孤立してしまうのが一番ヤバイと考えて自治体の無料カウンセリングやグループワークに参加してます。調べてみるまでこんな行政サービスがあるって知りませんでした。

家で一人悩んでた時間もったいなかったな。出来ることから、無理せず踏み出しましょう。
引き篭もってたら惨めで寂しくてダメすぎて自己嫌悪で吐きそうになるよね。
友達が結婚したり、子供産んだりして幸せそうにしていることを何かで知ると、自分が惨め過ぎて余計引き篭もる。

たださ、引き篭もってる時に常に感じているモヤモヤが消えない事がストレスに感じる時があって、一気に行動を起こそうって思う時が急に来るんだよね。

引き篭もっている事って楽だって思ってたけど、幸せから1番遠くにいるってふと思った時があってそこからはびっくりする位すぐ動けた。
ひきこもりってね、自分をああでもないこうでもない、あれができない、これができない、みんなが出来ているのになんて自分はダメなんだ〜って責めるより出来ることからやることなんだって。
理想と実際の自分の差で自分を責めないでね。
僕もいいこと全然ないです(笑)でも最近気づいたことがあります。もちろんどうしようもないこともあるんですが、結局は友達ができないのも自分が喋らないから
僕の場合自分を認めてくれる人がきっといるはず!そういう人が友達なんだ!とか思ってたんですが自分から話しかけてみるとみんなも受け入れてくれるようになって今とても楽しいです。
だから気づいたんです。他人に求めるだけじゃダメだ。自分も求めていることに見合うことをしないと意味がないって・・・
自殺をするなら失うものは今ないんですよね?なら一から始めればいいんじゃないでしょうか?
自分をガラリと変えてみてください!もし勇気がなかったら失うものは何もないんだと思い返してみてください。
死と向き合った人間は強いです!あなたはいま最強です!!頑張ってください!
したいよ。すんごいしたいよ。
一人で生きていくんじゃなくて、誰かと家族になって生きて、そしてまた家族が増えて…みんなで一緒に生きていきたいよ。


でもこのまま結婚できずに人生終わりそうな予感しかない…( ;∀;)
付き合ってほどほどの年月で催促もせず結婚してくれ!って相手から言われた人本当羨ましい
女がケツ叩いて結婚したら結婚後、結婚してやった的な空気になりそうで怖い…
男優位な結婚生活にならないのかな?

結婚をどう決めてくれるかが、結婚後の信頼や期待につながると思います。
プロポーズや指輪がどう、とかじゃないですよ。
どのタイミングでいつ、とか、親に対してどうか、とか。

結局、夫婦になるという自覚がどれくらいあるかが大事だと思います。
楽しいことばかりではなく、つらいことも面倒なことも、夫婦としてやっていかなきゃならんのですから・・。


結婚する気がない人は彼女とか作らないで欲しい
相手にも限られた時間があることを考えないのかな…


1年記念日の11月、どちらからともなく指輪見に行かない?→私もなにこれきれーいほしーい!→旦那が、じゃぁ、おとうさんに挨拶に行かなきゃ→来週来てー!って、セッティング→お父さんも結婚オッケー→じゃぁ、今から指輪見て来まーす!ってまた店へ行って買ってもらった→指輪が12月の頭?に仕上がってクリスマスに一応プロポーズもしてもらったよ。

いまだに旦那には
指輪に目がくらんだでしょ、と言われますが勢いがあったなぁとは思います。

その後年明け1月に結納、4月入籍、6月結婚式しました。すんごいトントンでした!


ここを見ている男性諸君。

「女の価値は若さ!若い嫁がいい!」と言いながら、早く結婚したい女の子には「金目当てなんだろ?結婚が全てだと思ってるわけ?自立してない女とか養いたくない」みたいな事言うの、やめて頂きたい。

おそらく、ここで彼氏のプロポーズ待ちのみんなは、「絶対専業!働きたくない!」なんて思ってないのよ。
もしも彼氏がお金のことが心配で結婚に踏み切れないなら、むしろ相談してほしいの。「今こういう状況だからすぐには難しいんだ。」って。そしたら「私も働くし、二人で頑張ろう!」って言える。この二人で一緒に「未来について話し合う」ってことがしたいわけよ。

大切な彼女とその話し合い自体がめんどくせーって感じるなら、今すぐ別れてあげなさいな。


ほんと自分がバカだったと反省してる
25から婚活してれば三十路こえて焦らなかった、、若いからまだまだいけると思って出会いないのをほったらかしにしてた。

友達の評価とか、わたしはどーでもいいな。
それより50年一緒にいるんだから尽くしてくれる優しいひとがいい。

どーせハイスペと結婚したらしたで、女の子はケチつけるよ。
「自然体でいれない結婚 笑」とか、
専業主婦なら
「家庭に縛り付けられてかわいそう」
とか。。

友達より旦那といる時間のが長いんだから、ブッサイクでも優しい誠実な方がいい...


優しくて誠実なのが一番だよね。
20代のころはとにかくルックスにこだわっちゃうけど、やっぱ性格一番。

 

 

20代でそれに気づいて、誠実で優しい男捕まえる子はマジで賢いと思う。。

中学のときも高校のときも大学のときも「今からでは遅い」と色々なことを諦めていました。

しかし、今になって思えば、諦めて何もしなくなったことがもったいなかったと後悔しています。

あなたが思っているよりもあなたは生きていません。人生を24時間に置き換えるなら、まだ午前5時です。まだ起きてすらいません。

今悪い夢を見ているとしても、目を覚ませば違う世界が広がっています。それがくだらないものかどうかを確かめてから考えてはどうでしょうか。
今友達と思えるような存在がいないとしても、これから先探し続けば見つかりますし、いないからと言って人間的価値が低いわけではありません。

一人でも自分のことを認めてくれる友がいれば、それだけで宝です。

孤独を知っているからこそ、その経験がこの先自分だけではなく、誰かの役に立てるでしょう。
>ぽんさん

素晴らしいです。こういうタイプの悩みは、「前向きな気持ち」になる日を待っていても、そういう日は来ないので、「今のままでいる苦痛」を利用して、そこから逃れるために一歩を踏み出すことが多いです。苦痛は必ずしも悪いものではないんですね。

2年半くらい前からこのブログを読んでいました。そして今回のブログのような流れに自然と2年半かかりましたが、考え方が変わったというか、覚悟が出来ました。
「今まで自分で考え、自分で決めるということを
ほとんどしてこなかったので、自分で決めるのは怖い。
では今の状況のままでいいかと言われると、やっぱり嫌だ。
失敗してもいいから、自分で考え、
自分で決めてみよう、と思えた」
このまんまです。失敗も後悔もしたくないですが、失敗も後悔も絶対するけど、私は今のままでは嫌なので、失敗も後悔もする為に行動します。もう動き出しています。今このブログを読んでてよかったと思いました。しっくりできました。これからどうなるかわからないですが、とりあえず生きてみます。
これからもブログ読みます。


とりあえずニコニコ笑っておけば大抵のことはなんとかなる、なるというか辛いことも過ぎ去っていく。


みすぼらしくない人生を送る事。
お金持ちじゃないとダメって事ではなく、
自分や家族がみじめになるような事は避けたい。
だから、そのために努力する。


病気の大半は、自己否定の為に無意識に、自らストレスをかけてしまっている事に気付いた。

あと、イジメとかも結局自己否定の塊から、他人へ被害を与えてると思っているので。

自分を大切に労わろうとしている所。

結局みんな疲れてるし大変だから、
少しでもいたわってあげたい。
あと、生き字引となって、自分が勉強し、
いつでも誰かのためになる言葉をかけてあげれる、
必要とされる存在でありたい。

寄り添う優しさ。

やらずに後悔よりもやって後悔。
経験が増えることにより、人生が豊かになりそうだから。いまのところ、思い出すと叫びたくなるような黒歴史満載な人生です。

先ずは健康でいられること。
あとは思いやりと誠実さを忘れず、日常の当たり前にも感謝と幸福を感じていられる人であ
れたら…と思っています。


楽しむこと

ささやかな「出会い」を、なにかしらの「関係」に発展させるには、一定の勇気が必要です。声をかけたり、手紙を送ったり。

(中略)

そこで「関係」に踏み出す勇気をくじかれた人は、どうするか?

「運命の人」という幻想にすがりつくのです。……いまのあなたがそうであるように。

目の前に愛すべき他者がいるのに、あれこれ理由を並べて「この人ではない」と退け、「もっと理想的な、もっと完璧な、もっと運命的な相手がいるはずだ」と目を伏せる。

それ以上の関係に踏み込もうとせず、ありとあらゆる候補者を、自らの手で排除する。


24で鬱発症。それを機に会社を辞め実家に戻る。通院しながらもなんとかバイトをして働いてたが、26で完全なひきこもりに。それから26から28まで丸丸ヒッキーとなる。

28で克服したのはもう自分で自分を許そうと思ったから。
子供のころから対人恐怖症でいじめられっ子だった。親兄妹教師にそれを伝えたら教師や生徒から倍返しで攻撃された。

「いじめられる方にも問題がある」「被害妄想が激しい。だからいじめられる」「いつもこう。だから嫌われる」等々・・。
親兄妹ですら「お前の考えすぎじゃないのか?」「自分にも原因はないのか?」と責めてきた。
もう四面楚歌で、ここまで周りに責められるといじめられる自分が悪い。自分が駄目なんだ。と、自分で自分を責め立てる。自分の存在全てが悪だ。生まれてきてすみません。どうして周りが当たり前にこなす人間関係が自分はできない?それは自分が駄目人間だから。

毎日毎日自分を責めて、とうとう1歩も外へ出れなくなった。
そうこうしてるうちにひきこもることに飽きてきた。
そしてひとつの結論に達した。

周りは四面楚歌。誰も自分の味方なぞいない。みんな上から目線で責め立てる。
そんな奴らの為に自分が損して苦しむのって馬鹿じゃね?

それに気づいたら楽になった。誰のためでもない。自分の為に生きろよ。
人に相談してもなんの意味もない。人は好き勝手しか言わない。だって人事(ひとごと)だもの。
そんな他人の言葉に振り回されるのって馬鹿じゃね?意味なくね?

それに気づいたら克服できた。
色々あって26歳から3年引きこもりました!
携帯も解約しちゃったから友達とも疎遠になっちゃいましたが、30歳手前で焦って職業訓練に通って人と関わることに慣れていきました。
アルバイトしたり職を転々としましたが、いまは優しい主人と結婚できて派遣で働きながら子ナシ主婦してます。
引きこもりの時はわたしの人生終わってるって、自分で自分の人生閉ざしちゃってました。
やっぱりもったいないことしたぁって振り返ると思いますσ(^_^;)

不安

 これからの不安対策について。

私たちはいつも不安感がある。その不安感は適度であればいいが、過度に持ちすぎると体調にも悪いし精神も病んでいく。そしてしまいには死にいたるといっても過言ではない。

そんな不安というものについて、少しずつでも対応策というものを積み重ねて探っていくのである。


心配しすぎ、考えすぎはとにかく禁物。考えてしまってもなにも変わらない。
心配しても何も結果は変わらない。


考えたり心配してよくなる方はどうぞそのまま。

 


社会不安症とは、ほかの人と社会的な場所で交わる場面で非常に強い不安感を感じる病気です。失敗を怖れ、他人からどう思われるかを気にしすぎるのです。しかも良くできたところには目が向かないのです。

かつては対人恐怖症と呼ばれていた。


悪い結果ばかりを考え、行動を制限しすぎる。不安な心から浮かぶのは後ろ向きな予測だけ。他人のなにげないしぐさを後ろ向きに解釈することが多く、さらに不安を強めるという悪循環に陥ります。そして苦手を避けるために回避行動をしてしまう。それにより人と接する機会が減り孤立してしまう。

 

そんな不安から備えすぎてしまう。そして備えても備えても不安は湧いて出てきてしまう。

自分の意識の奥深くに「失敗するに決まっている」という思い込みがあるので、準備をしてもキリがなく、いつまでも準備してしまい。もうなにがなんだかわからなくなる。 

 

対策は立てすぎないようにしたい。自分が思っている準備はもう6割くらいでいいことにしよう。自分の頭で考えすぎない。人に頼む。人に考えてもらうように意識してみてほしい。


いや、わかる。なんでも自分でやってきてしまっている君だから、力のすべてを使って物事に向き合ってきているんだね。しかし、それがダメだと思うんだ。もっと人に任せないと自分でやれるだけのことをしたっていう姿勢は格好いいかもしれないけど、それには遊びがない。

多分遊びがなくなると、固くなり緊張そして不安に繋がっていってしまうように思う。だから自分がやらないといけないことは6割くらいの準備を意識してみてほしい。

 


安心感の欠如が不安を増幅させている。
この安心感を手に入れることが鍵だ。でもどうやって安心感という抽象的なものをゲットしてけばいいのか。安心感はどこにも売っていないしなぁ。これは俺自身の課題でもある。一緒に考えよう。


まず不安感の背景には行き場がない、居場所がないという「よるべない感じ」が心の奥に隠れていると思う。俺もそうだ。不安感というものはよるべなさみたいな感じがする。だからこそなにかにすがりたくなるのだろう。でも少し待って欲しい。そういう時は何かにすがろうと手短なものに手を出すのはいけない。まずは落ち着こう。

 

不安をやっつけようとしても消えない。


人が安心して過ごすためには、二つの安心感が必要だ。

一つ目は「生命の安心感」
食事や住むところなど、生活の基盤が安心していて、生命や健康が脅かされないこと。それが生きることへの安心感に直結する。


二つ目は「社会的安心感」
人とのかかわりのなかで、ほめられたり、尊重されたりする経験が、安心感をはぐくまれます。自分をしっかり受け止められる経験が非常に有効である。


この二つを適度に満たし続けることができれば不安感は減少し、安心感が育っていく。
その結果「自分は認められている」「いてもいいんだ」と感じられる。


しかしこの二つの安心感を適度に満たし続けるのはけっこう難しい。できる人はできるができない人はできない。


社会的安心感の不足が、自分を大切に思ったり好きになったりできず、不安定な「よるべない感じ」を抱えたまま生きなければならず、大変になる。

自尊心が育たないうえに、人との交わりで失敗したり成功したりする経験が乏しくなり、安心感が育たない。

 

 そして生活上の不便が大きくなる。
 大学生や社会人になると、初対面の人と話しをする機会や、大勢の前で行動しなければならない場面が増えてくる。内気だからといって避けていると人間関係に支障をきたしはじめてしまう。人づきあいができず孤立している自分に気づく。

 

ブログ主である俺なんかは大学時代はぼっちでありました。
ついでに言うと高校でもクラスになじめなかったのでした。(泣)

だから今こうして“生きちゃっている”わけだしブログを書いて考えるのです。
不安に対してどうすればいいのか?とにかく考えて改善し、攻略してみるよ。

とにかく今不安な人はなにはともあれ、生きのびることが大事なんじゃないかと思います。誰も味方がいないのであれば、自分が自分の最大の味方になるしかないじゃないですか。

 


 ★脳の働きから考えてみる。

悪いのは脳だった!!ということにして、脳について調べてみるのはどうか?
悲しみや、不安といった感情は脳から生まれる。不安の働きが強いのは、脳の働きにアンバランスがあるためと考えられる。

調べてみると、脳が過剰に活動をすると、つまり不安を感じすぎるような頭の使い方であれば、脳の一部位が形態的変化をきたす。そして二次的にうつ病が併発するなど、いろいろな症状に展開していくと考えられているそうだ。


 考え方に影響している「前帯状皮質」という脳の部位だ。
そこは脳の内側の部位で、感情や本能と深くかかわる部位。特に、認知や感情を関連づける働きを担っている。

 

そして「前帯状皮質」が良い状態だと・・・・・・
思考が柔軟になり、ひとつの考えにこだわりません。問題に直面したときに、ひとつの解決方法がうまくいかなくても、別の方法を探すことができます。

「前帯状皮質」が過活動になると・・・・・・
 ものごとの考え方が硬直してしまい、ひとつの考えに固執したり、つらい思い出や失敗にとらわれて後ろ向きな思考にはまり込んでしまいます。

 

 


不安感が増幅した結果でとにかく一番マズいのは「人を避け、孤立や引きこもり」になってしまうことだと思う。社会から引き離されることが一番の問題だと俺は思う。


「いや、おれ一人でいいし」そんなことを俺も思ったことがある。しかしそれは俺の場合違った。人間はやはり社会的動物だ。コミュニケーションを根本的に欲している。ひととの繋がりがないと人間は死んでしまうと思う。孤独が人を殺す。
社会的孤立はなにより恐ろしいと俺は思う。


だからつながるんだ。群れるんだ。


といっても、難しい。なんせ不安感がすごいから。人が怖いから。
じゃあ、どうすんの?


ごめん、俺もよくわからない。自分で考えてください。俺も自分で考えますので。
とりあえず重症の人は病院に行ったほうがいい。自分だけで解決しない。


人とのかかわりが少なくなると
人と接するのがつらいために、学校や会社そのものから撤退します。周囲からは「そんな理由で退職するの?」などと驚かれることもある。

不登校  クラスに溶け込めず、学校生活がつらくて登校できなくなります。
転職   営業や接客業など、人とかかわる仕事を避け、ひとりでできる職業を求めて転職をくり返す

退職  仕事上の苦痛が大きすぎるために、辞めてしまう人も。

社会不安症の患者さんのおよそ4割は無職というデータもある。

 

他人と深い関係が結べない。学校や職場で人と社会的なつながりがもてません。プライベートでの深い関係をつくるのもむずかしくなり、恋愛、結婚にも支障をきたします。

 


・・・・・・まぁ俺に当てはまっているのだけれどね笑  恋愛なんてしたことねーわw
結婚もできねーなこりゃ笑  あーーーどうしようもないね。


まぁだからこそどうするかということでありまして。以後問いは続く。
けどあまり考えすぎないようにしたい。ない頭を使っても鬱になる原因をつくるだけだし。

 

認知行動療法を知ろう。
認知行動療法は「安心感」を育てるためのプログラムです。何が不安か、その強さはどのくらいかなど、本人の症状を見ながら進められることがメリットである。

プログラムを通じて
「自分は大丈夫だ」という手応えをつかむ。
日常生活だけでは経験できない気づきや成功を経験することで、より強く、かつ効率的に、自分を信頼できるようになり、安心感が育っていきます。

「自分がおそれているほど、周りに変に思われているわけではないのだな」
「意外とできるじゃん」
「他人は、そんなに私に注目しているわけではなかった」


そして「安心感」が「不安」を小さくする。
「できる!」を積み重ねていくと、そのぶん「できないかも」という不安が小さくなります。

社会不安症の人は、ものごとのとらえ方、つまり認知が偏りがちなのです。
そこでものごとを多方面から見るトレーニングをしよう。

 

ちょっと疲れたので今日はここまでにします。ノシ

 

 

 

苦から自由になる教え

 

「なぜ、生きるのがこんなにつらいのだろうか」
「どうすれば、この苦しみを消すことができるだろうか」

そんな切実な悩みを抱えながら生きていらっしゃる方も、昨今はけっして少なくないでしょう。人がこの世を生きていくということは、さまざまな苦しみがつきまといます。その「苦」というものに、真っ正面から取り組んだのがブッタです。

実際、ブッタの教えを実践すると、心が満たされ、とても幸せになります。たとえば、子供の頃、特に何か大きな出来事があったわけでもないのに、日常のごく素朴な一コマにも心を踊らせていた記憶はありませんか。そのようにイキイキとした感覚は、大人になっても十分取り戻せます。これまでに身につけた豊富な知識、明晰に考える知性を携えながらも、子供のようなみずみずしい感性をもって、やすらぎと喜びに満たされながら生きられるようになります。

 それは、モノや地位などの外部要因に依存せず、自らで生み出し、自らが主となり、自らをよりどころとして培っていける「内発的な幸せ」です。
 具体的に言うと、このようなものです。
①煩悩や世間の風評に翻弄されず、いつも清々しい心でいられる。
②心配や不安に心を騒がされることがなく、いつも落ち着いていられる。
③一切のものごとをあるがままに見て、広くて深い理解を得られる。④不満や孤独、さびしさを感じることがなく、元気はつらつとして、満たされている。
⑤他人の幸せを願い、他の繁栄を喜べるような、成熟した心を持てる。
 いかがでしょう、なかなかいいかんじだと思いませんか?これらは、「宝くじが当たった」とか「一流企業に就職できた」などといった外部要因、あるいは特定の条件に左右される幸せとはちょっと趣の異なる、より繊細で妙味のある幸せと言えましょう。こうした幸せを、ブッタの教えを実践することによってたしかに得ることができます。
 しかし、あえてこの本の中では「幸せを得る教え」という表現はせずに、「苦を滅する教え」、あるいは「苦からの解放(自由)を得る教え」という文脈で語りたいと思います。
 なぜかと言えば、一般的には、「幸福=外側の何かを得ること」と考えられているからです。それゆえ、「幸せを得るために」といった文脈で語ると、外側の何かを求める方向、あるいは結果だけを欲する方向、すなわち、ブッタが避けるようにと教えた「欲(渇愛)」のほうへと意識が向かってしまうかもしれません。そういった誤解や混乱を避けたいがためです。
 また、私自身、ブッタが「苦しみ」をテーマにしたことに大きな意義を感じています。「幸せを得る」ではなく「苦を滅する」に焦点を当てたことは、ブッタならではの卓見であり、このアプローチであったからこそ、ブッタの教えがより多くの人たちのためのものとなり、また、重要な意味を宿したものになったのではないかと思います。
 そう思う理由は、二つあります。
 まず、ひとつは、「苦しみ」は古今東西、老若男女、誰もが直面する問題であるということです。そして、それは一生に一度二度、あれも出会うというものでもありません。日々いや、よくよく見れば、一瞬一瞬刻々と遭遇している事実が垣間見えてくるかもしれません。苦しみは、それほどまでに私たち誰にとっても身近で、かつ日常的な現象であり、また、そこから解放され、自由にイキイキと毎日を生きたいと願わない者はいないという切実な課題です。

 もうひとつは、「苦しみ」というものが「知恵」と「慈悲」の結節点になっているという点です。「苦しみ」克服のプロセスは、そっくりそのまま「智恵」醸成のプロセスと重なってきます。同時に「苦しみ」を自らでしっかりと感じ取り、見つめ、理解することは、「苦しみ」という厄介でつらい体験を共有し合う他者、さらには生きとし生けるものすべてに対する共感の念、あるいは「慈悲」の心を培うことにもつながります。
 

 仏教は決して死者のための儀式でもなく、哲学的な思索に留まるような机上の空論でもなく、また、一部の人たちのための悟りマニュアルでもありません。この世に生を受け、苦しみに直面する人間だれもが活用できる苦しみからの解放の教えであり、その道を歩み始めるものは、今この瞬間から苦しみを減ずることができ、やがては完全な滅苦にまで至ることができる、そういう教えです。

 

しとしと降る梅雨の時期、しっとりと潤った大地。ひと雨ごとに鮮やかさを増す紫陽花。


降る雨をどのように受け取るかは、それぞれの都合。


どうすることもいらん
大きな手のひらの中で
いま 私は
しずかに降る雨を見ている。


私の都合に関わりなく、確かな事実の中にいるということ

 

 


渇けば渇くほどによく燃える。それは木くずたちのことなんだけど、
人の心もそうかもしれない。渇ききった心は水を求める。癒やしを求める。

火がつけばよく燃える。それは自分でも考えられないくらい。突飛な行動をするのかもしれない。

渇きとはなんだろうか、それは寂しさか、承認欲求か。


そんな難しく考えなさんな。

渇きとは渇きじゃよ。それ以外なんでもないのじゃ。


ぼくらは飢えていた。決して満たされることなんてない毎日の中で、心や身体は飢えに飢えきっていたのだった。

だから求める。


何を求めているのか、もはや分からないくらいに彷徨い歩き、ここではないどこかへ行こうとする。その先になにかあると信じ続けて。


なにかにすがったとき、なにかの温もりに触れたとき、この旅は終わるんだろう。

亀仙人の教え

 


さて、やっとわが亀仙流武術の修行をはじめるわけじゃが、そのまえに


武術というものについてちょっとだけいっておく。


武術を習得するのはケンカに勝つためではなく

ギャルに「あらん♥あなたとってもつよいのね~うっふーん」

と言われるためでもない!!


武術を学ぶことによって心身ともに健康になり

それによって生まれた余裕で人生を


おもしろおかしくはりきって過ごしてしまおうというものじゃ


ただし! 不当な力で自分もしくは正しい人々をおびやかそうという敵にはズゴーンと

いっぱつ かましたれ!

 


・・・・・・ようするに、いっしょうけんめいに修行して

人生を楽しく暮らしちゃおうということだ。

 

よく動き、よく学び、よく遊び、よく食べて、よく休む

 

これが亀仙流の修行じゃ!

 

成長とは引き算

成長とは、引き算。
成長とは、許すこと。

「成長」というものに対して、みなさんはどのようなイメージを持っておられるでしょうか。

サラリーマンを長年やっていた僕にとっての成長は
「何かができるようになる」
「何かの能力が身につく」
「できることが増えていく」
という感じの、「武器を増やすこと」、そして「素晴らしい人間になること」というイメージでした。

 だから、成長というのは、努力して、勉強して、学んで、訓練して・・・・・・という「過程」」が必ず必要と思っていました。
 そう、「強くなること」が成長だと思っていました。

 その信念のもと、僕は努力し、ときに挫折し、また努力し、結果を出し。結果が思うように出ず。と、うまくいったり失敗したりしながらの「成長」をしていると思っていました。
 そして、
「成長することが正しい」
「成長すると認めてもらえる」
「成長すると幸せになる」
と信じて頑張りました。
逆に言えば、「成長しないとダメだ」という恐怖との戦いでした。

「結果が残せないとダメだ」
「できないことはダメだ」
「役立たずはダメだ」
「弱音を吐いてはダメだ」
「弱いところを見せてはダメだ」

 と、じつはただのヨロイを着込み、仮面をかぶり、重い武器を引きずって、へとへとになりながら戦っていたのでした。
 そして、それだけ戦っていたのに、まだ「思うような結果が出ない」「思うように人に認めてもらえない」という焦りと欠乏感から、「これは、努力が足りないのだ」と考えて、さらに「がんばる」しか方法を知らなかったのです。

 そして、「がんばったから」今の結果を、今の立場を、今の承認をもらえているのに、もしここで、がんばらなかったら、結果を残せなかったら、役に立たない人間になったら、迷惑をかける人になったら、もう人生は終わりなんじゃないか、という恐怖との戦いでもありました。
 泳ぎ疲れて、でも、泳ぎを止めるわけにはいかなくて、むしろ、もっと「速く泳ぐ」ということを目指して、学んで、みんなから認めてもらえ・・・・・・るはずでした。
 なのに、自分が望むような結果が一向に手に入らず、周りの人と比べては、ため息をついて、嫉妬して、毒を吐いて、なんとか自分を保つ。そんな日々を過ごしていた。
「もっと成長しなければ」と、さらに自分の「武器を手にする」ために、時間とお金を使い、「すごい自分」という張りぼてづくりに日々時間を使っていました。
 ウソの人生、自分らしくない人生、休めない人生を送っていたのですね。
 でも、そんなある日、ふと思ったのです。
「それ、本当か?」と。
 そう、僕が長年信じてきたこと、「成長しなければダメだ」「役に立たなければいけない」「まだまだ努力が足りない」って、ほんとか?と。
 そう、言い換えると「ほんとに、そんなに、自分は、ダメな人間なのか!?」ということでした。「そんなにがんばらないと、ココに居られないのか?」と。


 考えてみれば、毎日のようにブラブラしているのに、大したこともしてないのに、みんなに愛されて認められていて、結果まで残している人がいる。
 こっちのほうが結果を残しているのに、こっちのほうが真面目に働いているのに、こっちのほうががんばっているのに、おかしくないか?
 でも、そこには、自分自身の中に、言葉にできないほどの恐怖がありました。
「こちらのほうががんばっているのに、がんばっていない人のほうが認められているということは、自分という人間に、どれだけ魅力がないということなのだろう?」という恐怖でした。
 だから、その「魅力のなさ」をカバーするために、魅力のなさを認めたくないために、「ただ、必死に」走り続けていたのです。
 そして、そのことに気づいたとき、気づいてしまったとき、ありえないほどの絶望を感じました。そして、その絶望を感じ、感じきったときに、ふと思ったのです。
「それ、本当か?」と。

 そこから僕は、「成長する必要はない」「そんなことしなくても、自分は愛されている、認められている」という「前提」に変えたのです。
 今までは「成長しなければ、そのままの自分は嫌われて見捨てられる」という「前提」、おそろしいほどの自己否定感を握りしめていたのです。
 それを180度、裏返してみた。
 そうすると、今まで読んできた、ポジティブな本や、自己啓発書に書かれているような「成長」と、今回お話する「本来の成長」は、まったく意味が違うということに気づいたのです。
 それは「大前提の違い」でした。

 そこに気づいた直後から、僕の身の回りに起きる出来事は激変しました・・・・・・

 今までしていた努力を、学びを、武器を、全部捨てたら、まるで重りをはずした気球のように大空高く舞い上がることができたわけです。 さあ、そんな「がんばり」とは対極の「新・成長論」。ここから順にお話していきたいと思います。