なるように任せたら
「まさかこうなるとは思わなかった」
という未来に漂着することがある。
それが過去から見た未来の自分の姿になるのだと思います。

変わることは怖いことに見えるときもあるけど、
変わっていく自分を眺めること
新しい自分を発見することは、
とても面白いことだと思います。


世の中の99%の人はあなたに興味なんてないんですよ。
何気ない一言に人生がズバッと変わってしまったみたいな話は色んな人がよくしますが、
「きっかけ」を受け入れるための土壌が自分の中で出てきて
それは初めて意味のある言葉として受け入れられたりするんですよね。

 

 

めっちゃ人に会いまくる。
世間も周囲もあなたに大した興味がないので、他人の視線なんて気にせず、
もっとのびのびと楽しんだらいいと思います。

 

 

出来ないんじゃなくて、「今はまだできない」と考える。

そんなわけでみんなより出遅れているだけなのだから、出来ないことだらけだとしても
「今は仕方がない」で乗り切れるわけなんです。

出来ないと捉えるのか、「今はまだ出来ない」と捉えるのかで
けっこう違う結果になると思いますよ。


マイペースな考え方だとは思いますが
みんながみんな、平等にその能力を得る機会があったわけではないのですから、
みんなが出来るのに自分は出来ないことがあろうが、
「私の人生ではできるための機会があまり与えられなかったから今は出来ない」
で、別に良いのですよね。

 

自己満足でいい。
いつも他人の評価を気にしている。
そうやって周りに気を使いすぎて。窮屈な思いをして苦しんでいる。
もっと自己満足でいい。

誰かの期待を満たすために生きなくてもいいのです。
ただ自分の信じる道を進めばいいのです。
望むように生きていい。

 

十年の歳月は人を鍛えうる。
今たいした事のない文章を書き綴っているブロガーだとしても、
十年後まだ息が続くならどうなっているかわかったもんじゃない。
とにかくアカウントに降り積もった歴史も財産も、いったん消えてしまえば
「無かったことになってしまう」ことだけは覚えておいたほうがいい。

 

ブログにおける最高の戦術は生き残った者により伝わっていく。
ブログにおける最高の戦術は

「書くこと」

これだよね。

結局ずーっとロングランで残り続けているブログって、なにはともあれ書き続けるって事が言いたいんです。

その時に感じたこと、考えたこと、学んだこと、起こったこと。
これらを書いているんです。

書いている自分が満足できればそれでいい。

人間の欲っていうのは、なかなかそこまでシンプルに割り切れるものじゃないんですけど。

 


生きる目的、生きる理由、生きる根拠なんてものはない。

そんなものは存在しないことをいったん認めたうえで、

じゃあ、この無目的な生をどのような指針で転がしていくのか

と考えればいい。

そんなことを考えなくてもいいのだ。そんな発想じたい、人生のおまけみたいなもので

あってもいいけど、なくてもいいものだと、あらかじめ断っておく。

 

何かが存在している理由を目的論的に問うたところで、
「ただそこにあるから」
としか言いようがない。
草花が何を考えなくても、そこに存在しているように

人間一人一人も、何を考えているのかとは無関係に存在している。


人間の生は無目的ではあっても、無尽蔵ではない。
タイムオーバーの存在する、束の間のものだ。
しかも、寿命がいつ尽きるのか自分では分からないとくる。

そういう危うい条件のもとで自分の生が成立していることを自覚すると
この一回きりの人生をどう料理してやろうか、
死ぬまでの束の間をどのように過ごそうかという発想が生まれてくる。


無目的に、たまたま生きているという巡り合わせを、どのように取り扱うのか?
明日死ぬかもしれないとしたら、今日をどのように生きるか?
あと十年くらい生きれるとしたら、その十年を使ってどのような事をやりたいのか。

 

こんなふうに自分の欲目について考えていると
「人は何のために生きるのか」という
形而上的な問いがどうでもよくなってくる。
そんなことを考えている暇はないのだ。
明日死ぬかもしれないし、来年死ぬかもしれない。
自分自身が残された時間をどのように使い
どのように死に至るのか。

____そのように考えると、人生はあまりにも短く、よしんば長生きできるとしても
二十代は一度きり、三十代は一度きりなのである。

ゲームは
普段のレベルアップが本番で、ボス戦とエンディングはおまけです。
勉強が本番で合格はおまけ。

夢やゴールはいったん設定したら忘れよう。
ふさわしいレベルの準備が整ったら自然と捕まえられるようになる。

前にすすんでいないようでも、できないことが多くてもくじけない。
続けていれば必ずできるようになる。
なにくそっていう思いですよね。
だってそこで止めるのはもったいないじゃないですか。


無駄の中に宝がある。

無駄になった努力は、いつか未来の手札になる。
今の積み重ねである未来もおのずと決まってしまう。

そんな状況の中で出来るのは自分で工夫して
楽しみを作り出すことだけだと思っています。

自分にできることを最大限駆使して伸ばしている時間こそが最高に充実した今を生きているということ。

ひたすら目の前のことに夢中になる。
そしたら結果が出るし、そうしないと結果は出ない。
自分の手の届く範囲のことを一生懸命やることが一番の宝だ。


商売をするとか、利益を生むっていうのは技術なんです。
技術は勉強や訓練によって身につけることができます。


答えを用意してくれるだけの世の中ではない。ときには自分の範囲だけでもルールを書き換えたほうがいい。
ということだけでも知っていれば、無いものをあれこれ求めるよりは
あるものでもっとプレイを楽しむというか。

 


自分で答えを作りだそう。世界に答えがあるんじゃなくて自分で答えを作っていいんだ
ということ。

 


今のままがいいという願望はいかにも儚く、難しい。
変化を拒否しても、時間が人間を引きずっていく。
だからひとつの人生訓として
このままじゃヤバいは意外と悪くないんじゃないかと思う。

 

いいかい?
安定を求めたってどうせ80年くらいで死ぬんだぜ。
君の隣にいる安定を求めている奴は楽しそうかな?
思いっきり好きな仕事をやっている奴の方が幸せそうに見えない?
未来を変えられるのは自分だけ。

 

変わることの第一歩は知ることにあります。
なぜそう答えを急ぐのです?
答えとは誰かに教えてもらうものではなく
自らの手で導き出していくべきものです。
他社から与えられた答えは所詮、対処療法にすぎず、価値はあまりない。


大切なのは、なにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである。
誰かになりたがっているのは、ひとえに
「なにが与えられているか」にばかり注目しているからです。
そうではなく
「与えられたものをどう使うか」に注目するのです。

 

そうしたくなった、その気持ちを大切にしてください。
しなきゃに負けないでください。余計な見栄を投げ捨てる。
安心してダメになる練習をしているのだ。


もしかしたら、すべてはデタラメなのかもしれない。
地動説が天動説に変わるように。
世界の常識が一瞬でひっくり返る出来事が、人生にはたくさんある。

つまらない常識で自分をダメにしてしまうことほど、勿体ないことはないのだと思う。
何が起こるか分からない人生だからこそ、行動を続けてスキルを磨けば、多くのライバルを一年以内に抜かすことができる。


どこにも載っていないことを知るためには、自分で考え出すか、経験するしかない。
自分でやるしかないよ。

行動したら落ち込んでいるのであれば大丈夫。
きちんと行動していますから。その落ち込みは成長であり、前進です。

 

人と比べて落ち込むぐらいなら、何も見ないで自分の世界に籠もる方がいいと思います。
自分のペースでできることを積み重ねて成長。
自分の好みに鈍感になっているところに人の評価は入り込んできます。

大切なのは逃げないことではなくて、状況を的確に判断すること。つまり逃げるときには逃げる。調子が悪いときは休む。命より大事な仕事なんてない。

 

 

人生が終わる時に後悔すること

人生が終わるときに後悔すること。

1、他人がどう思うか気にしなければよかった
2、幸せをもっと噛み締めて生きるべきだった
3、もっと他人のために尽くせばよかった
4、くよくよ悩まなければよかった
5、家族ともっと時間を過ごせばよかった。
6、もっと人に優しい言葉をかけてやればよかった
7、あんなに不安を抱えながら生きるべきではなかった。
8、もっと時間があれば
9、もっと思い切って冒険すればよかった。
10、自分を大切にすればよかった。


お金があればできたことだろうか?
そうではなく、
お金がなくてもできることばかりで、もっと言えば
お金を求めていたから、二の次にしてしまったことばかりだ。


人生が終わろうとしている時に一番後悔するのは、お金がなくてもできることをしなかったことなのだ。

 

成熟していけばいいのだ。
縮小する現実のことと受け入れられれば、
売り上げ拡大だけの志向では思いつかない選択肢や可能性がたくさん生まれるはずだ。

わくわくだ。
まさに成長から、成熟へのチャレンジである。

いつまでも全力疾走する必要はない。

 

そうそう全力疾走なんてずっとはできないし、人生は100メートル走なんかではなく、マラソンだ。体力勝負だ。体力がいるからこそ、ゆっくりでぜんぜんいいのだ。

 

時間は不可逆で、お金は失ってもまだどうにかなる可能性はある。
いや、でも俺の場合稼げないからなぁ。お金も大事。でも時間はもっと大事。

しかし暇になりすぎてもなにしていいか分からんのよねぇ。とくにこれといってやることもないしぃ。そして人生が終わる時に後悔するという。どうすれば後悔しないのか。かんがえていきたい。でも考えても後悔はするだろうな。というかどうやったって後悔はついて回りそう。でも上述した後悔することリストは見直して行き、大切なことを見直して暮らしていこう。


幸せを噛み締めつつ、冒険しつつ、自分に忠実に。

・・・・・・って結構むずいね(笑)まぁがんばりますw

諦めが肝心ですよ、人生は。

自分の人生のうだつのあがらなさを受け入れるための方法というのは必要だ。


自分の人生を望んだ方向に進めていこうと自分なりの努力することはもちろん大事だが


外部要因とかでどうにもならん日々をどう乗り越えていくのかというのは誰しもの課題だ。


その方法論を考えている時に思い浮かべる書籍があるので紹介したい

それが
「人生を半分あきらめて生きる」という本だ。


一言で言えば「諦めが肝心ですよ、人生は」ということだ。

 

結局どうにもならない自分の人生。思うようにならない日々。それらの対処法としては

「あきらめる」ということしかないと思う。

 

もちろんがんばって人生をより良くしようと努力するのもいいが、そもそもみんな頑張った上での今の結果なのだから、それをまずは受け入れるしかないのだと思う。

そして受け入れるというのは結局「あきらめる」ということになるのではないか。

 

その諦めるということを上手く説いているのが、上述した本である。

 

 

「普通の幸せ」が難しい時代だ。憧れの仕事、理想の結婚。豊かな老後・・・・・・そんな選択肢ができる人はごく少数。日本は、個人の努力とは無関係に、就職できない人、結婚できない人、孤独のまま死んでいく人がますます増える社会になる。そこでは「人並みになれない自分」に焦り苦しむより、人生を半分あきらめながら生きることが、心の奥深く満たされて生きる第一歩となる。自分ではどうにもならない現実に抗わず、今できることに集中する。前に向かうエネルギーはそこから湧いてくる___。臨床経験豊富な心理カウンセラーによる逆説的人生論。

 


 人生は、小さな「あきらめ」の積み重ね
 生きるとは、小さな「あきらめ」を積み重ねていくことです。仕事も、恋愛も、結婚も、子育ても、夫婦関係も介護も、「こうしたい」「こうあればいいのに」といくら思っていても、どうにもならないことばかり。そのどうにもならない現実を前に、私たちはただそれを少しずつ受け入れ、あきらめていくほかありません。

 


・・・・・・まぁ、仕方ないか。やるだけのことはやったよ。

 

 

でも、だからこそ、俺はあきらめてでも生きてみたい。この先へ進んでみたい。あきらめるのはあきらめれることだけだ。まだまだあきらめないぞォォォォォ


・・・・・・と言ってみて今日はおしまい。

五月、大学生の就職活動が本格化している。今年も学生側が有利な「売り手市場」になっているそうだ。

しかし何十社も受けたのに内定がもらえず、ひどく落ち込む人がいたり、そうした不安心理につけこむ業者もいる。

友人が次々と内定する中で就活が長期化すると、自分が社会から否定されているように感じる。自己評価が極端に下がり、抑鬱状態になるケースがある。

「悩みを抱え孤立すると、ひきこもりや自殺に結び付く危険もある。」と専門家は言う

大学にはそれぞれ相談窓口が設置されているので、不安で身動きが取れなくなりそうになったら遠慮せずに訪れよう。決して一人で解決しようとしないこと。

家族や友人など、周囲のサポートも重要。食事や睡眠をとれているか、極端に元気がなくなっていないかどうか気にかけてほしい。

 

また就活生の不安につけこむ悪徳業者も存在するという。

「就活で有利になるなど勧誘され、就職講座や英会話教室、高額の教材などを強引に契約させられるトラブルが増加している」と専門家は指摘している。

面接の準備などと称したエステティックサービスの契約や、起業支援のセミナー参加費用などで数十万から百万円以上支払わされた事例もあるのだそう。

8日以内であればクーリングオフも出来るので、契約後でもおかしいと感じたらすぐに解約しよう。


以下クーリングオフの手順

1、解約を申し出る書面を業者に出す。

2、書面はコピーをとっておく。

3、簡易書留など、出した日付が証明できる方法で郵送する。


クーリングオフは、書面を出した時から有効になる。一人で悩まないで、すぐに大学や消費センターに相談してください」

 

悪徳業者に不安を煽られ、つけ込まれないようにしたい。
困った時は周囲に助けを求めるという姿勢が大事だ。一人で孤立しないようにしよう。

安西先生に捧ぐ、休みたい時の文章

 安西先生、ごめん。先生は「あきらければそこで試合終了ですよ」って言っていたよね。
でも、ぼくはもう諦めます。もうあきらめないとかがんばるとかいうのはいいかなって。

 

もうね、充分やってきたかなって思うのよ。この社会どんどん縮小していってるじゃん?
こう、がんばっても報われないっていうかさぁ。もうどうしようもなくね?みたいな空気が漂っているじゃん。ただならぬくらい。俺の人生の周辺にはね。俺の人生にも。


いやね、もちろん、これからだってやるだけやってみるよ?その姿勢は変わんないよ。でもさ、こう、もう無理じゃね感があるのよ。この先に希望なんてほんとにあんのかよって。


なげやりになっちゃうよ。どうにか自暴自棄にならないように努めるよ。


でも安西先生。ぼくはもう、やめます。がんばるのは。いやがんばりますけど。
こうなんていうか、まぁ。がんばるのは必要最小限で行きます。


「あきらめちゃダメだ」とか「がんばれ」とか「元気になろう」とか「ポジティブ」とか
ちょっとそういう熱い感じは今の気分じゃないかな。そういう精神論、根性論も嫌いじゃないけど。


ちょっと少し休もうかなって。

 

この生きづらい時代に、ぼくたちに必要なのはさ、人生を少しずつ、少しずつ薄皮をはいでいくかのように、上手に人生を諦めていく知恵と工夫だと思うんだよね。そっちの方が役に立ちそうじゃない?


そんな自分を、他人を追い込まないでさ。

 


大事なことはさ、生きていて、思うようにいかない毎日の生活の中で自然と生まれてくるネガティブな感情を、お互いに聞き合って、頷きあうことかなって。

「まぁ、いいか」
「仕方ないよ」
「もう、だめだわ」
「だめならダメでいっか」
「あきらめるしかないわ」
「人生詰んだわ」

そんな言葉を言うことを自分に許して、仲間や友達とも言い合って傷の舐め合いしてさ
成長なんて目指さずに。


そんなことをしていれば少し安心感が出てくると思うんだよね。そうすればまた一歩を進めるんだ。


ディオブランドーさんも言ってたじゃん?「人間に必要なのは安心感」だって。

 


なんとか生きしのいでいくために、これからの厳しい時代、ますます多くの人が夢や希望を諦めて、孤独や寂しさと生きていかざるを得ないこともあると思います。

 


その苦しみや寂しさを抱えながら、「なんとか死ぬことなく、生きていくための方法」そして「生き方」を求めていく所存であります。

 

ちょっと固くなったけど、きほんゆるくやっていくよ。固くなってもしょうがないだろ。まずは肩の力ぬこう。深呼吸&りら~っくす。

 

ほんじゃ、本日も一歩だけ進んでみよっか。

生きる苦しみだったり自殺だったり

自殺も含めて“逆戻り"できないことはなるべくしない方がいいと思う。

漫画家 古泉 智浩

一般的に言われている適年齢をすぎても経験がなかったことで、性に対して妄想とも言えるような大きな憧れを抱いていたから。結局あるときちょっとしたきっかけで経験した・・・

率直な感想は「あ、こんなもんか」って(笑)。人生におけるイベントってそんなものなのかも知れない。体験しなければ分からないことだけど、あんまり期待しない方がいいこともあるって(笑)

ヤンキーに殴られる恐怖を克服しようと思って、空手を始めた。ヤンキーに対する恐怖は子供の頃からあった。空手でリアルな痛みを味わうと、痛みというものに対する物差しが持てる。道端のヤンキーに殴られても「こんなものか」っていうのがわかると、ヤンキーが怖くなくなった。

 生きることに対して、楽しい、いいことがある、とはっきり言えない社会だ。生きずらさはある。誰だって幸せになりたい。だけど、幸福を気にするあまり、不幸が気になるんだと思う。明確でないものは気にしない方がいい。気にしても答えは出ないからだ。


夢を持てと言うけれど、目標と夢の混同は危険だ。本当は目標というべきレベルのものを夢と勘違いしてしまうと、叶わなかったときの絶望感が強い。目標と夢は区別すること。夢は叶ってもいいし、叶わなくてもいい。女の子を100人並べて次々とスカートをめくっていくこととか、ありえないことが夢でもいいんだから。

 自殺しないために、希望を大きくするとか、ストレスを減らすとか・・・・・・。漫画や映画のように、ハッピーな場面で幕が引けたらいいのにと思うけど、残酷なことに人生は続いていく。


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村山さん

死ぬってことが甘美に思える瞬間がある。でもそれは幻だ。
自殺は生を否定する究極の自己選択だ。うつ病を経験した僕には分かる。「死」が堪らなく甘美なものに思える瞬間がある。病気の苦しみと「死」を比較したときに、「死」の方が楽に思える衝動が心を支配するときがある。それは事実だ。僕の事務所には月に2,3度は「これから死にます」という電話がある。そんなとき、僕は理由を訪ねることにしている。色んな理由がある。当然だ。でも僕は自殺を肯定しない。誰になんと言われようと「死んだらダメだ!」と言う。「どうして死んだらいけないの?」と言う人がいる。それに対して、明確に答えられたことはない。でも、それは本能的にダメなのだ。理屈じゃなくてダメなのだ。これを読んで「これから死にます」って人がいたら電話を下さい。いつものように、僕は理由を尋ねます。もし、僕を納得させる理由だったら、自殺は許すかも知れない。けどそんな理由に出会ったことは一度もない。