今にくつろげばいい

信じる力=待つ力

鏡は先に笑わない。
こちらが先に変えるんじゃよ。

あなたの「現実」を見て
現実より先に笑いなさい。
鏡は先に笑わないのだから。

現実とは違うことを信じる必要がある。

現実とは違うことを想像すればいい。

想像とは、現実とは違うことを好き勝手に思える奇跡の能力。


余計なものを経なくても
むしろ余計なものを経なかった分早く到着する。

「どうありたいか?」の実践
何もしないことが夢なら今すぐなにもしなければいい。

幸せを感じるために、宝くじはいらない。
お金もいらない。理由なんてなくても気づくだけで「それ」は今すぐ感じられるはず。

僕は、よく世間で言われるような前向きに考えて生きることが立派だとは思えないからです。むしろ重要なのは、後ろ向きのままでも生きていくしぶとさを獲得することではないでしょうか。

「いやだ!」という力を使って、「死」とは逆側に飛ぶことを考えたほうが良かったと思うのです。

自らを尊しと思わぬものは奴隷なり by夏目漱石

合理化はゆとりや遊びの空間を消して、むしろ人を遠ざけることになる。by手塚治虫

時間や手間のむだを嫌い、学習の便利を追求すればするほど、結局、学習そのものの効果が薄くなる。by吉田武

好きなことという縛りを与えず、スキルと知識の形成を優先する。
すると、そのスキルが次のレベルでより心の向かう先へといく自由を与えてくれるというわけです。


好きなこと想像するようにしなさい。嫌いなことを想像する時間を減らしてな。

まちがえて信じてしまったことが多すぎる。

「ない」ではなく「ある」を探す。
身の回りの充足を探せ。
「なりたい」なんて叶えて、なにが楽しい?
「なれている」が夢なんじゃない?

「金持ちになりたい」じゃなくて
「金持ちである」と勘違いして

そうじゃ、どの道、全ては勘違いなんじゃ。

「幸せである」と感じるのも
「不幸である」と感じるのも
その本人のただの勘違いじゃ。

不足を見れば、永遠に「なりたい」を夢にしてしまう。
もちろん、「なりたい」は叶い続けるが

お前の夢は「なれている」なんだろ?

じゃあ、「金持ち」さえも経由せずに「今、幸せである」とその場で感じればいい。

「いつか」を求めると、苦しくなる。
「今」にくつろげば、もう幸せ。

いつかの幻想を捨てて、今を楽しんでみましょう。
「いま」には、全ての「いつか」が含まれています。

「すでに私は持っている」

「イーンダヨ!」


おまじないが効くのは、その仕組みを理解できない時だけ。
お前の表層意識の理解力を超えた時、おまじないは効くんじゃ。

笑いが起きるのは、「私」が笑った理由を説明できない時。

神社=感謝のコンビニ

目の前の現実に意味はない

「感謝の心」を忘れて苦しんでおる。

お前はこの場所にいるだけで完全に役割を果たしている。
その場で今すぐ、くつろぎなさい。


くつろげれば、お前が望んでいる役割は全て「ここ」にやって来る。


君はもう、君なんだから
君には君の「役割」がある。

そのままでかけがえのない「あなた」なのに。

 

人生は一度きり、だから楽しめ

私も人生諦めてました。死のうと何回も思いました。
でもある時、自分に正直に生きてみたら、その日から毎日が充実し始めました。周りから何を言われようが、楽しくてしかたなくて、イヤなことがあっても気になりません。悪口を言う人のことなんて、かわいそうな人だなと思ってます。

みんな周りに合わせすぎて疲れているんだと思う。一度きりの人生。たった今ここにいる。
良いことも悪いことも全部ひっくるめて、それが人生なんだと感じました。


いやー、私もけっこう人生詰んでいる方の人間ですけど、
結婚してない。
貯金なし。
毎日お酒飲まないと眠れない。
社会不適合者の自覚あり。
「人間なんてだいっきらいだー」と思いながら生きている。

 

でもさ-、
諦めるのは、諦めるのだけはだめだと思うんだよ。

じゃあ、どうすりゃいいのさと言われたらそれはわたしにも分からないんですけど。

なんだろうなー、諦めるのだけはダメなんだよきっと。

ちっちゃくても、たったひとつでも、きぼうみたいな、
ほしいものでも行きたいとこでも、なんでもいいからあったら違うと思うんだよな。
それを考えるだけでもいいと思うんだよな。

大きいものだとまた、叶わなくてがっかりしちゃうから
ある本を手に入れるのを今は目標にしています。

ほんとえらそうなことを言える人間じゃないんですよ。
だけど諦めるのだけはだめだと思う。

 

「結局こうか」「人生うまくいかないや」
なんどもこう思ってきたことか。
幸せな環境にいても、幸薄癖で悪い方向に思考回路が向く。

でも、自分を諦めたくない。
私はもう幸せになっていいんだと、前を向くことを恐れず生きていきます。

 

どうせいつか死ぬんだからがんばらない。
最低限のことだけを最低限やるだけ。
けど、人生一度きりだから好きなことはとことんやる。


あってもなくても80すぎればみんなお婆さんだし
義親や認知症の旦那介護疲れした既婚のお婆ちゃんより
多趣味な生涯独身のお婆ちゃんの方が楽しかったり色々為になることを教えてくれたりします。
それが未熟な若い世代を救うことだってあります。


平均値にこだわって落ち込むくらいなら
自分にしかできないことを探してください。
私の大好きな利用者さんのお婆さんに教わりました。


結局は楽しいことが一番大切であり、幸せをつかむのは誰にだって等しく、難しいことではないんだなと思う。

 

 


ネガティブな友人がいる。
生い立ちが不幸なのは知っているけど、それ以降は自分でも引き寄せていると思う。
いつも私は不幸、報われないけど必死に感情を殺して生きている
って泣いているけど、周囲の人がたくさん助けて愛情も注いでいる。けっこう特別扱いもしているのに、ぜんぶガン無視。

傷つくことには敏感だけど、傷をつけていることには鈍感。
与えられているものもたくさんあるのに、感謝できない。

だから人もモノも離れていってしまう・・・

そんな悪循環はないでしょうか。

 

 


いろいろ悩んだり、持論を展開したり、誰かに勝とうとしたりして、どうにかして自分の人生を色濃くしようと思った時期もありました。が、結局、楽しんだもん勝ちだよね!という結論に達しました。
どうにかして楽しむ!!これに尽きると思います。

 

 


よく笑うこと。
やりたい事はすぐに行動に移すこと。
良い意味で周りを気にしないこと。
一人でも楽しめること。

私は割と一人で何でも行動しちゃいます。
だって人生一度きりだし、もったいないでしょ?

友達から「〇〇ちゃんすごいね!私は一人は無理だわ」とか、三十代の年上の人から「えぇ~!一人むりぃぃ」とか言ってる依存系の人みるとイライラする。あんたの人生は、あんたが舵を取るんだよ!

 

勉強すること。学校やカルチャーセンターに行かなくても好奇心を持った物事は何でもネットや本で一通り調べるとか。なんで居酒屋の前には信楽焼のたぬきがいるんだろうみたいな日常のことからニュースで聞いた用語とか、旅行に行くなら文化・歴史を下調べしておくとか、楽しいと思う。

対 厭世

 かつて、厭世的な欲求は、「西方浄土」「浄土信仰」のような形で対応されてきたのだ。
生きることに疲れた人間にささやかな慰安を与える「南無阿弥陀仏」という言葉は現代社会を生きる合理的な個人主義者には無駄にうつるかもしれない。

 しかし、つねに不条理に翻弄され、それでも自死を許されない境遇を生きた人たちにとっては、「せめてあの世では幸せに」というストーリーはささやかな支えになったであろう。そうでなければ浄土信仰は広がらなかったに違いない。

そうした不条理のうちに生きざるを得ない人のための糧は、実のところ、21世紀において再び必要になっているのではないか。


かつて「西方浄土」や「浄土信仰」は寺院や僧侶の説法が提供していたわけだが、その提供力も弱まってきている。

 

人間は、世間で思い込まれているほどに合理的には生きられない。生きたくなくても生きなければならない現実を生きて、死にたくても死ぬことを許されないまま日常をしのいでいる人がたくさんいる。誰でも幸せに辿りつけるとは信じにくい時代になってきたから、当然、浄土を夢想、あるいは鑑賞する想像力のニーズは高まっていると考えてもおかしくはないだろう。

 

 すべてが移ろいゆく娑婆世界において、「今のままがいい」という願望はいかにも儚く、難しい。少なくない人々が、この「今のままがいい」を無意識に目指してしまうけれど、それはもしかすると「変わり続ける」よりも難しいのではないか。

 

 社会適応に止まるという選択肢はない。
意識的に、また戦略的に変化していったほうが不意を打たれずに済むだろう。

 


不平等が少しずつ顕著になっていくこの世界で、もって生まれた星回りや天運を受け入れる方法論はどこにあるのか?それは今やすっかり廃れてしまっている。


自助努力では届かなかった悲しみに受け身を取り、精神的ダメージを効率的に受け流すための言い訳をすることが大事だが、そのためのノウハウや精神論が立ち上ってきてはいない。


自助努力や自己選択だけではどうにもうまくいかないことを大抵の人は再認識している。
だからこそ、持って生まれた星回りや天運を受け入れるための精神論や、やり方が現代風に蘇っても良いはずだ。「毒親」や「文化資本」といった言葉で呪詛をはき出すだけではダメだ。呪詛を吐くだけでは辛いばかりで、救いは無い。


 今、持って生まれた星回りや天運にネガティブではない意味づけを与え、たとい苦しい人生行路であっても意味を見いだし、受け入れていくための方法論はどこにいけば売っているのだろうか?むろん、そうした星回りや天運を小手先の言葉で一時的に遠ざける“おまじない"なら本屋にたくさん売っている。たくさんの人が星回りや天運に納得していないのだから、そうした本は確かに売れよう。だが、そういった本は星回りや天運をしばし忘れさせてくれても、受け入れる手助けとはならない。

 そうではなく、うだつのあがらない境遇や思い通りにいかない人生から目を逸らすことなく、背負って生きていくための精神的方法論や“やりかた"が新たな装いで立ち上がってくる必要性もあるのではないか、と私は思う。かつて、身分やイエや宗教はそうした“やりかた"として曲がりなりにも一定の機能を提供していた。それらがそのまま復活することは許されないとしても、それらが提供していた社会的機能そのものの復活は、それなりに必要で、ひそかに待望されてすらいるのではないか。

 

 

トラックにひかれそうになったこととそのままで生きてやろうってこと

朝、トラックに轢かれそうになったことを思い出す。

あれは小旅行の帰り、時間にして深夜3時くらいか

ガソリンスタンドで給油後に車線に出ようとしたところで2トントラックがこちらに突っ込んできた。

ぶつかれば即死だったと思う。

運良くトラック運転手のとっさのハンドルさばきで助かったが、、、


死ななくて良かったと思う。今生きているのは運である。


今日も新鮮でまっさらな1日が始まる。生きよう。

 

f:id:rockmanlife123:20170605072151j:image

 

 

オレは生まれてこの方
彼女ができたことがない。

不思議である。

別にできたっていいじゃないかと思う。

しかし世界はオレに答えを示し続けている。


オレに彼女はできない。


そして世界はオレに改善とか努力を求める。


それじゃあ出来ないよ、と


オレは思う。


うるせえよ。


このオレで出来ないなら別にいらねーよ。


オレはこのままで行く。


彼女は未だできない。


今日も始まる。

一度心臓が止まったことをオレは忘れない。

行き詰まったら昼寝。信長はそうしていたそうだ。

伝え方が9割 みんな実践しない。

始めしんみり、中おかしく、終わり尊く。

孤独じゃなくなる方法なんてない。孤独はどしても感じてしまう。だからもうほっとこう。どうせ何もせんでも死ぬわけだし。

辛くなったらアマゾンプライムビデオでも見てればいい。成長なんてしなくてもいい。辛くなったら無になろう。


感謝をして到達したら整う。
そしたら少し休んでまた出発しようか。


田舎の寂れた保養施設に来た。
だだっ広い駐車場に世間に背を向けているかのような車がポツポツと怪しく止まっている。そこにオレも車を止める。

肌寒い風が吹く。しまったオレは半袖だ。ちょい寒い。今は夕暮れ時、昼間は割と暑くて、この格好でも良かったのだが。

ジーンズのチャックを閉める。風呂から上がった。
風呂の中は絶えずオルゴールの音がBGMで、より寂しさが際立つ。オレの人生こんなもんなのかなあという、情け無い気持ちになる。いい湯なのだが。

オレの人生を色で例えると
緑と茶色と灰色を混ぜたような色だな。地を這う色味。

脳内でこねくり回してもやっぱ意味ない。

今日の朝、心臓が止まった。次には血液が流れず体が冷たくなり始めた。そして痺れも表れた。

今たまたま生きている。
いつか死ぬ。

 

何もやる気は出ない

三日坊主にコンプレックスを持っている人は多いが、逆に三日坊主のコレクションをするつもりでちょうどいい。三日坊主のコレクションをしていると、ついうっかり四日継続してしまうものに遭遇する。それがあなたの才能である可能性は高い。毎日続けなければならないとか石の上にも三年とか、余計なことは考えなくていい。続けられるものに出会うまで、どんどん浮気すればいい。続けられるものに出会い、その才能を磨いていく過程で、これまでの三日坊主のコレクションがすべてリンクする瞬間がやってくる。


自分のスタイルというのは、自分で見つける以外に方法はない。身動き取れない地獄をくぐり抜けた瞬間、最初に光がさすだろう。その光こそ、あなたにとってかけがえのないスタイルになるはずだ。


先生として教える立場に回るということは、少なくとも生徒として教わる立場の10倍の知識が必要となる。どれだけ猛勉強をしても、ぼろくそに批判される。これが勉強を勉強でおわらせずに、成長につなげていくコツなのだ。能動的になることによって元に戻れなくなる。

傍から見て長期間にわたる現状維持に見えたとしても、本当は水面下で無数の細かい変化が積み重ねられているのだ。もしあなたがこれから変化したかったら、今すぐできる小さなことをバカにしないことだ。誰でも簡単にできることを今すぐやるクセをつけよう。大きく変わるだろう。

 

ひたすら話を聞き続けた人は、ある日突然話す側になる。
そのまま話を聞き続けて、どんどん他人に振り回されよう。あれだけ苦にならず聞き続けてきたというのに、急に聞くことに力が入らないようになるのだ。同時にあふれ出すようになる。インプット人生からアウトプット人生に切り替わる瞬間である。まだ若かりし頃からアウトプット人生を歩んできたエリートたちを、一気にごぼう抜きするのだ。自分の意見を持とうとするのは大切だ。その思いを忘れてはいけない。ただ、焦る必要はない。あふれ出すまでは、ひたすらコップに水を溜め続ければいい。

 

なんでもかんでも裏を読もうとする姿勢を、まず自分が改めるべきだ。もっと楽に生きたほうがいい。相手がどんな嫌味を言ってこようが、ニッコリ満面のほほえみでこう答えてさしあげればいい。
「褒め言葉として受け取っておきます」
一度やってみれば、わかるが、とても快感だ。相手にとっても、これほど大きなダメージを受ける嫌味はない。


継続的に成果をあげ続けるには、自分の視野を広げる以外に方法はないのだ。常識をとことん壊して、非常識と思われることに果敢に挑戦していくことが視野を広げることにつながる。希望の光はいつも常識の裏にある。

6月になったな

生きていけそうにない世界で今日もまだ生きているとはこれ面白いですね。おはようございます。

やっぱり自分の体験というものが一番のネタになるんだろうなと。だから色んな意味不明な体験を積み重ねていきたい。どういう体験だと面白いのか。考えるよりも先に体験をしよう。って考えている時点ですでに出遅れていると思うんだけどね。

イヤ、しかし逆のこう考えるのはどうだ?
「すでに、おもしろい体験の中にいる」
という前提で生きる、と。

俺はすでにおもしろいところにいる。あとはそれを描写するということだけでいいのではないか?そういう逆転の発想。発想の転換。視点の転換。コペルニクス


確かにそう考えて、周りを見渡してみるとこの世界は不思議なことで満ちているように見えてくる。


今日も昨日ほどではないが暑い。車の中は灼熱地獄である。日陰に止めないと大変なことになる。車の中はまるでオーブンだ。こんがり焼かれてしまいそうになる。夏までになんか対策をしたいと思う。


商品力を徹底的に高めるということが必要なんだって。大愚さん。がんばったのに上手くいかないのは商品力を高めることが不足しているからかもしれません。とのこと。どうやったら商品力を高めることができるだろうか?

理想の精神状態を「高速回転する軸のコマ」に例えていた。モチベーションが上がったり下がったりを繰り返している状態は、中心軸がぶれていてグラグラしているコマのようなもの。だからバランスが悪い。すぐに止まってしまう。


俺は中心軸なんてなくその都度モチベーションが上下している。そしてそれでいいと思っている。なるようにしかならない。南無阿弥陀仏&他力本願。ケセラセラ。その精神。ビジネスが上手くいかないのは商品力が無いからだそうだ。あとはマーケティング力。セールス力。販売した商品は何がいけなかったのか?反芻してみよう。


うまくいかない事に対してのモチベーションなんていらない。売れていけば楽しくなるよ。俺としてはうまくいかなくてもいいんだと思う。それはまっとうではないけどね。うまくいかなくてもやる。破滅してしまうかもしれないけどやる。とにかくやってしまう。そっちの方が単純にいいと思う。うまくいくからやる。うまくいかないならやらない。それだと面白さは生まれないかもしれない。もちろん、うまくいけば最高だけど。

 

合理的な判断よりも自分の直感という勘違いで進んでいきたい。そっちの方が俺っぽい。

「こっちのほうがなんかいいな」

そんなあやふやな感覚を頼りに進んでいくのだ。そして失敗するのだwww
これでいいのだ。


まぁでも金儲けしたいよね。仕事を成功させたいものだよね。うまくいけばしめたもの。

ブログで何を書くかっていうことだけど、何も思いつかないwwwそれでいっか。
ただのポエマーブログですものね。