対 厭世

 かつて、厭世的な欲求は、「西方浄土」「浄土信仰」のような形で対応されてきたのだ。
生きることに疲れた人間にささやかな慰安を与える「南無阿弥陀仏」という言葉は現代社会を生きる合理的な個人主義者には無駄にうつるかもしれない。

 しかし、つねに不条理に翻弄され、それでも自死を許されない境遇を生きた人たちにとっては、「せめてあの世では幸せに」というストーリーはささやかな支えになったであろう。そうでなければ浄土信仰は広がらなかったに違いない。

そうした不条理のうちに生きざるを得ない人のための糧は、実のところ、21世紀において再び必要になっているのではないか。


かつて「西方浄土」や「浄土信仰」は寺院や僧侶の説法が提供していたわけだが、その提供力も弱まってきている。

 

人間は、世間で思い込まれているほどに合理的には生きられない。生きたくなくても生きなければならない現実を生きて、死にたくても死ぬことを許されないまま日常をしのいでいる人がたくさんいる。誰でも幸せに辿りつけるとは信じにくい時代になってきたから、当然、浄土を夢想、あるいは鑑賞する想像力のニーズは高まっていると考えてもおかしくはないだろう。

 

 すべてが移ろいゆく娑婆世界において、「今のままがいい」という願望はいかにも儚く、難しい。少なくない人々が、この「今のままがいい」を無意識に目指してしまうけれど、それはもしかすると「変わり続ける」よりも難しいのではないか。

 

 社会適応に止まるという選択肢はない。
意識的に、また戦略的に変化していったほうが不意を打たれずに済むだろう。

 


不平等が少しずつ顕著になっていくこの世界で、もって生まれた星回りや天運を受け入れる方法論はどこにあるのか?それは今やすっかり廃れてしまっている。


自助努力では届かなかった悲しみに受け身を取り、精神的ダメージを効率的に受け流すための言い訳をすることが大事だが、そのためのノウハウや精神論が立ち上ってきてはいない。


自助努力や自己選択だけではどうにもうまくいかないことを大抵の人は再認識している。
だからこそ、持って生まれた星回りや天運を受け入れるための精神論や、やり方が現代風に蘇っても良いはずだ。「毒親」や「文化資本」といった言葉で呪詛をはき出すだけではダメだ。呪詛を吐くだけでは辛いばかりで、救いは無い。


 今、持って生まれた星回りや天運にネガティブではない意味づけを与え、たとい苦しい人生行路であっても意味を見いだし、受け入れていくための方法論はどこにいけば売っているのだろうか?むろん、そうした星回りや天運を小手先の言葉で一時的に遠ざける“おまじない"なら本屋にたくさん売っている。たくさんの人が星回りや天運に納得していないのだから、そうした本は確かに売れよう。だが、そういった本は星回りや天運をしばし忘れさせてくれても、受け入れる手助けとはならない。

 そうではなく、うだつのあがらない境遇や思い通りにいかない人生から目を逸らすことなく、背負って生きていくための精神的方法論や“やりかた"が新たな装いで立ち上がってくる必要性もあるのではないか、と私は思う。かつて、身分やイエや宗教はそうした“やりかた"として曲がりなりにも一定の機能を提供していた。それらがそのまま復活することは許されないとしても、それらが提供していた社会的機能そのものの復活は、それなりに必要で、ひそかに待望されてすらいるのではないか。