世間の価値判断を無条件に信用せず、主体性をもって生きる生き方をする。それが「自由」ではないでしょうか。この場合の「自由」は「自分に由る」という意味です。

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あなたは一つの神におまかせしたのだから、その神が与えてくださるもので満足すべきです。どんな結果になっても、文句は言わないこと。それがおまかせしたことなんですよ。

 

 

 

 ──あきらめよ!──  と教えたのです。救いをあきらめて、地獄に落ちて(苦海に沈んで)、そこでしっかりと生きればよい。苦しみながら生きるのです。そういう生き方もすばらしい。気楽に酔生夢死の生き方、極楽蜻蛉の生き方をするばかりが人生ではないのです。苦しみに呻きつつ生きる生き方も、あんがいおもしろいかもしれません。要は覚悟の問題です。

 

 

 

仏教を学べば、苦しみを苦しみとしてしっかり耐えられる力が得られるのです。悲しみを悲しみとして受け容れる力が得られる。仏教はその力を教えてくれているのです。

 

 

 

いちど世間の価値観を離れて自由になってごらんなさい。そうすると、ほとんどの悩みが吹っ飛んじゃいますよ。仏教はそのように教えています。

 


世間の価値判断を無条件に信用せず、主体性をもって生きる生き方をする。それが「自由」ではないでしょうか。この場合の「自由」は「自分に由る」という意味です。

 

 

 

道徳というものは強者に都合よく出来ています。いや、道徳は、強者が弱者を支配し束縛するための武器、と言ってもいいくらいです。

 

 

 

その縄が許す範囲内で楽しく過ごす工夫をします。縄が許す範囲を超えて、その向こうに行きたいと思ってはいけません。そんなことを考えると、「繫驢橛」になってしまいます。

 

 

 

わたしたちの悩み・苦しみの大部分は、思うがままにならないことを思うがままにしようとすることから起きています。その悩み・苦しみを克服しようとする努力は、だいたいにおいて自縄自縛の状態に自己を追い込むことになっています。思うがままにならないことは、思うがままにならないことだと「明らめること」が大事なことではないでしょうか……。

 

 

 

仏道を志すといっても、別段大袈裟なことではない。暇のある身になって、仏道を優先し、世間のことを気にしないのが第一の道である)