不安や弱さ、
発作に怯えながら、
おちこんだり
キャパなくて
一つのことをやっとできたり
社会に適合しない自分こそ
わたしだから面白いし、
マイナスから始まって
どこまでいけるのか?を
周りを巻き込みながら一緒に楽しめると思ってる。
「あんなことして、いいんだ」
「それ、しなくていいんだ」
「あ、そんなにうまくいっていいんだ」
「あ、心配しなくていいんだ」
という、心の制限を外すこと、
そちらの方が大切です。
自己責任を軽減し、自分を楽にしてくれるのが宗教です。
あなたがあなたであっていいのです。あなたが怠け者であれば、怠け者のまま最善を尽くせばいいのです。きっと神はそう言われるはずです。
観音様は極楽世界においては暇なもので、この娑婆世界に遊学に来られたのです。修行に来られたのです。
負け組になった人は、仏教の考え方だと、「すまんが、ちょっとあなたは負け組になってよね」と仏から頼まれた人なんです。
成人したおとなであっても、自分は仏の子なんだという自覚を持つべきです。そして、仏の子らしく生きようとします。苦しみの中にあっても、悲しみの中にあっても、仏はわたしたちが仏の子らしく生きてほしいと期待して見守っていてくださる。そのことを忘れてはいけません。
観音様はそのつらさにへこたれることなく、しっかりとプレイ(遊び)ができるんだ。だからあなたも、つらいとき、苦しいときには、自分は観音様だということを思い出して、しっかりと生きるんだよ」
無価値感ってのを味わうのがみんな心底恐怖なんだよな、きっと。
だから、仕事をノンストップでやり、休みの日も何かの予定を入れちゃう。
それって、幸せや豊かさはいつ味わうんだい?
無価値感を味わいまくったらその奥に、自由や豊かさってあったりするもんさ。
「朝茶はその日の難逃れ」 「朝茶はその日の福を増す」
長年続けられるなと感じる、自分なりのルールを、まず決めてみるところから始めましょう。
それより、自分を認めましょう。 自分で自分を褒めることを許しましょう。 それは自惚れではないのです。愛なのです。 自分を愛する事は、自分の存在を認めることです。 そしてそれは、他者への愛へと自然と繋がります。
「やりたいこと、得意なことをやって、自分にとってストレスや負担になることはやらない」ということ。その中で、さらにスキルアップし、よりいいものが生み出されるというスタイルです。
ただ、私たちを生かしているのは日々の生活です。人生は今日と明日の繰り返し。先のことはわからなくても、「今日一日をどう過ごすか」「明日、どうしようか」で生きていけば、それでいいのではないかと思うのです。幸せかどうかを決めるのは、最後は自分自身なのですから。
いたずらに不安になるよりも、今を「ガハハ」と笑って過ごしたい。
私にとって漠然とした不安から脱するのに一番重要だったのは「足るを知る」事でした。
不安というのは「足りない」ではなく「分からない」事からきていると思います。
我慢ばかりして身体を壊しながら、使い途の無い大金を貯める意味など始めからなかったのです。
そもそも人は「楽しい気持ちを感じる」と生き生きします。
というより、「楽しい気持ちを感じるために生きている」と言っても過言ではありません。
そして、楽しく生き生きする日々を送るための1つの手段として、仕事をしたり、家事をしたり、食事や掃除など身の回りのことをしていますよね。
得よう得ようとすると、うまく行かない。
自分で得たものなんて、何一つない。
自分の体だって、もらったものだ。
全ては授かりもの。
何かを得ようと焦るよりも
授かったものに感謝しまくって、
その感謝を味わいつくそう。