引きこもることは、私にとっては「選択の結果」になるわけです。自分の意志で家にこもる道を選んだわけであり、私のような集団の中にいることにより生じるリスクを避け、メンタルが安定する選択をしてきた、というわけです。
私のような「内向的」な人間が、引きこもりという選択肢をえらびつづけてきたということ。
その結果として、私は40代になるまで独身で実家暮らしをしているのですが、その結果として人生で遭遇したかもしれない悩みや苦しみを避けることができたという点で、本能に従って生きてきたわけです。
「私は引きこもりです」と言ったら、「あなた大丈夫?」とか「いい年して情けない」というような批判も受けますが、私は私なりに必死に自分を守ってきたと思っています。
自分の弱い部分がはっきりとわかっているので、人との距離の取り方に苦心しながらも今日まで、生き抜いて来れました。
私自身も年を重ねたことによって、私と出会う年少の方々が私にある程度のリスペクトを示してくださるようになったことが、若いころと明確に違う点です。
今私はとても充実していて、それまでの引きこもり生活は無駄ではなかったと思っているのです。
新たな挑戦のために、時間を確保し、エネルギーを適切に注入するためにも、これまでの習慣、行動の中から、捨てるものをリストアップしないといけません。
適切な食事や休暇、趣味や運動などで「気」を養っていかないと、生きるエネルギーとしての「気」は消耗していく一方。元気がなくなると、病を患い、いずれ死に至ることになります。
養生訓の答えはストレートです。心を穏やかに、怒りと欲を抑え、憂いや思い煩いを少なくし、自分を苦しめない、ということです。
今もパートナーを得るという夢は叶ってないけど、もう頑張らなくていいし、夢を途中で諦めてもよいと「今」の私が1番安心する「がんばらない」選択をして過ごしています。
安らかに、心豊かに居心地よく…そんなことが何よりも大事だったと「今」は思えます。
身体も喜んでいるのがわかります。
わき上がった感情をそのまま認めること」を基本とします。「しんどいなあ」と思っているとき、不器用な自分をチクチク責めたり、つらさの矛先を身近な誰かに向けたりして、最終的に「もっとしんどくなる」という悪循環を引き起こしがちです。しかし、実はそんなときに一番大事にしたいのが、苦しい気持ちをただ認めることです。どんなに居心地の悪い感情であっても、必ず意味があってわき上がっている。その意味をすくい上げ、自分で、自分の味方になってやる。こんなふうに、感情と柔らかいスタンスで向き合うと、不思議とお腹の底から力がわいてきて、そばにいる人に対しても優しくなれるものです。
「お金があれば」は結局逃げだったんだなって気づきました。
ものを増やしてつくった自信を崩すのが怖いから必死に物やお金や愛を増やそうとして 満たされない。
ここでも足し算の女でした。笑
増やすことが目的だから、自分が本当に好きなものがわからなくなるし、好きなものを選ぶのが怖いんです。
びくびくしながら自分が気に入らないものは捨てて、好きなものだけ選んでいきます。
何でプロフェッショナルがいいとか、極めたらいい、続けなきゃダメ、結果出さないとダメとかって風潮になっちゃってるんですかね。
原始人みたいに食べて寝て、歌歌って踊ってていいんですよね。