要するに人生とは、私たちに、次から次へと悩みや問題を与え、それに私たちがどう答えるか、そこから私たちが何に気づき、何を学べるかを試されている“試練の場”“魂の修行の場”なのである。
これらの悩みや問題は実は、その背後に、重要な意味を隠し持っている。私たちの人生に対する、とても大切なメッセージを含んでいる。
この人生で起きるすべての出来事は、つながっている”
この人生で起きるすべての出来事は、私たちに対する“呼びかけの声”である
けれどその一方で、人生のほうはまだ、あなた方に対する期待を捨ててはいないはずです。“あなたを必要とする何か”がどこかにあり、“あなたを必要としている誰か”がどこかにいるはずです。そしてその“何か”や“誰か”は、あなたに発見されるのを待っているのです」
いる“意味と使命”を発見し、実現していくこと。“自分の人生には、どんな意味が与えられており、どんな使命が課せられているのか”それを発見し、実現すること。それだけであり、そのことを私たちは、人生から問われている。人生のほうから求められている。
私の底”に、私自身より大きな何かの働きが与えられている。
その働きは、あえて名前を付ければ“いのちの働き”とでも呼ぶよりほかないような何か。あえて一言で言えば“私の底のいのちの働き”。
“自分の悩み”への執着・こだわりを“手放す”ことができるかどうか、そして、この自分の存在が“自分を越えた大きな大きないのちの流れ”のとった、一つのちっぽけな形にすぎないということを心の底から実感できるかどうか
「私は、この人生で何をすることを求められているのだろう」
「私のことをほんとうに必要としている人は誰だろう。その人は、どこにいるのだろう」
「その誰かや何かのために、私にできることは、何があるだろう
これらの出来事は、いったい、何を意味しているのだろう? これらの出来事を通して、人生は私に、何に気づかせ、何を学ばせようとしているのだろう?
“自分のしたいこと”ではなく“人生が自分に求めてきていること”を見つけて取り組んでいけ、それが、私たちが生きる意味を実感しながら生きる道だ、とフランクルは言います。
どうしても自分の内側でこみあげてくる強い憎しみや怒り、悲しみ、さみしさ、絶望なども、愛や喜びや希望と同じように、かけがえのない自分の一部としてきちんと認め、それと共にいられるようになることです。自分の中のどの部分からのメッセージにも耳を傾けながら生きていけるようになることです。
大切なのは、今は変われないとしても、決して人生をあきらめてしまわないこと。
この人生には、よくわからないあいまいなことがたくさんある”ということを覚えておいて、チャンスが訪れるのを辛抱強く“待ち続ける”ことです。
自己実現する心の姿勢をおろそかにし、劣等感から「理想の自我像を実現すること」に努力するのは、運命に逆らっていることである。 向上心とは、自分のできることの中でがんばることである。自分のできないことをしようとして、無理するのは向上心ではなく劣等感である。
運命に逆らっても勝ち目はない。人生最後まで不幸な人は、運命に逆らって生きてきた人である。
僕らが幸せになるためにしなければいけないことは「不能感を感じない程度に女攻略をすること」だけなのだ。