最近、人とのご縁って 自分が何をしようとしなかろうと 相手が何をしようとしなかろうと 初めから決まっているのかな? と思い始めて、 そしたら、親との関係も 私がどうだから、私が何かをしたから、私が何かをしなかったから…じゃないのかも という仮定が生まれてきて、 そしたら、そしたら 私が親に嫌われてるのって 私の言動や性格や能力は関係ない =何をしても好かれなかった ってことになる。 もしかしたら、それが怖くて 「私は自分を変えなきゃいけない」と思っていたのかも。 「私が親に好かれることは、何をしても不可能」っていうのが一番嫌だったのかも。 だから「何かを変えれば好かれるはず」って思いたかったんだ…。 きっと、完璧に親の理想通りの子供になっても、私は親に好かれなかったんだろうな。 「完璧すぎてムカツク」とか言われそう。笑 私がどうであっても何をしても愛してくれる人と一緒に居よう。 私も、相手がどうであっても何をしても愛してしまう人と一緒に居よう。
いつまでたっても良い格好しい だけど どうでもいい(もう取り繕え無い 自分らしくで いい 誰かの為に忖度と遠慮を繰り返すのに本当に疲れた。 自由に楽しく恋だって楽しみたい。 ◯◯さんがあの人を好きだと言っていた? 私が忖度した所でなにが変わる? 限界がきて周りがどうでもよくなり 本当に嫌われる覚悟の時、たしかに 私は逆に周りから認められてきた 何なんでしょうね本当…
成長への執着によりストレスが増大し、私たちは自分で自分の首を絞める状態に陥っている。
ところで報告ですが、心屋さんを知って数ヶ月(ヨーロッパでは残念ながらまだ知名度が)、ブログと書籍を数冊読んで、めっちゃ族とふーん族について教えてもらい、自分はめっちゃ族で生きてきた!と思っていたのですが。
実は人生の大きな転機があり、一回死んできたら、この2年でなんか自分、ふーん族になったみたいなんです。
それまでは旦那の承認、仕事関係の承認、家族や友人、そして世間の承認を得ることを第一に生きてたのだけど、それがすっと落ちて。なんか振り回されてたなあと。承認がほしくて生きてた時は楽しかったんですよ!めっちゃめっちゃに。結果も出たし。
でも死を目前にしたら、そんなものはどうでもいいこと、無駄に時間を潰してしまった!って身体で感じてしまって。もっとやりたいことがあった!そしてそれは外から判断されることじゃないんだと。自分にしか進歩はわからないこと。たぶん。
それからまさに心屋さんのおっしゃる自分ファーストで生きてたらなんか前より健康になった感じです。悩みも全部どこかへ行ってしまいました。
今は何かをする、成し遂げるというよりも、内から湧き出るものに身を任せて身体ファースト。そしたら、新しく始めたテニスとハープの進歩が凄まじくて。両方の先生から「数日で1年分の進歩をしている。そんな初心者は初めてだ。もっと早く始めなかったのがもったいない」と絶賛されます。そんな時はちょっぴり嬉しい。でも褒められなくても続けると思います。だってテニスもハープも身体が求めているから。死ぬ前はいろんな計算が働いて絶対やろうとは思わんかった。
そういうわけで身体ファーストだと承認は別になくてもいいけど、もらえたら気持ちよくいただくようにしてます。
「自分のできないことはやりたくないというよりは、やらないほうがいい。誰かできる人に任せたほうがよっぽどいい」
「他人はアレコレ言ってくるが、適当に聞き流しておけばいい。皆、自分の人生じゃないからって無責任なことばっかり言ってくるのだから」
「自分の人生なんだから、誰よりも自分のことを甘やかしてあげたい」
「脱線しても続ければ道になる」
『なら今を楽しんだらいいぢゃん。失敗してもうまくいかなくてもそれでいいぢゃん!』
そぉ思った瞬間
ストーン!と気持ちが楽になりました!
キャパオーバーなのに常に
やらなきゃ!と言う完璧を求めて
理想が大きかったみたいです!笑
無理するな
自分の出来る範囲でいい。
人って無料で出来る簡単な事ほどやらない。
大きな事ばかりに目を向けて、
すぐに結果を出そうと焦る。
でもね、結局は今うまく行ってる人は
日々のコツコツの積み重ねだと思う。
小さな事が出来ない人に大きな事は
出来ないと思うから。
30才超えると自分に主人公感が無くなってくるからか他人からの評価も自分自身への評価も急激にどうでもよくなってきて焦燥に潰されてた20代より余程楽しいのでとりあえず30+あたりまで生きるのおすすめです
20代に焦燥感に追われながらも培った事が、肩の抜けた30代で生きて、評価とか気にせずに大胆に動けるようになるのも、30代の楽しいところですね( ´∀` )
30手前くらいからいろいろ面白くなってきたというか面白く捉えられるようになった気がする
恐怖心というのは、
繰り返すと「減る」のよ。
不安感も
繰り返すと「慣れる」のよ。
どーせ、
大丈夫だとわかるから笑。
怖いのは「不慣れ」なのよ。
不安なのは「慣れてない」からなのよ。
そんだけ。
自分の思いとは違うけど。
自分の希望とは違うけど。
自分のコントロールしたい姿とは違うけど。
不思議なことに
負けたほうが
手放したほうが
あきらめたほうが
それを、潔くやればやるほど
それを、本気でやればやるほど
流れがうまれて
自分の人生が進んでいくような
今、自分が体験しているプロセスが進んでいくような
そんな感覚にたくさんなりました。
結果的に、とても幸せである。
勉学ができることと、頭の回転の速さ、周囲の情況を慮ること、インプットとアウトプットのバランス、はたまたコミュニケーション能力(俗に言う世渡りなのかな)は、全くの別物。
社会で求められていることは圧倒的に後者。
高学歴=万能なんかではない。
高学歴だからと言って、それに過信するのも、依存するのも、誇りに感じるのも、弊害を産むだけ。
高学歴はあくまでも勉強をがんばってきた証し。
それ以上でもそれ以下でもない。
学歴社会+就職氷河期世代の高学歴BBAより。
いろいろポイポイ投げ捨てたら
わかりました。
私はびびっていたのです。
だからいろいろ不必要なものを
つないでいたと思います。
恐れているとダメです。
沢山物がなくても大丈夫、
友達いなくても大丈夫、
家は広くなくて大丈夫、
結構平然とやれるわ
と開き直ったらとても
自分とまわりが
清々しくなりました。
軽薄でありたい。行くかどうか迷ってる場所は行ってから考えるとか、買うかどうか迷ってるものは買ってから考えるとか、誘っても断られそうな人については断られてから考えるとか、死んでも生きても今のところ大した意味はないからとりあえずは生きとくかとか
けもの道人生をひた走ってきた身からすると、人生がうまくいったと思うかどうかは「ただの結果論」「当人の受け取り方次第」でしかない。前にEテレ「オイコノミア」でも言っていたが、人生の大半は単に運に流されているだけだと思った方が良いらしい。ならば「結果の受け取り方」を工夫する方が建設的
「迷った時は成長できる方を選べ」とか「困難な方を選べ」とか言われると「えぇ…(やだ…」ってなるんだけど、私が昔言われてそれなら取り入れられると思ったのが
「迷った時は物語が転がる方を選べ」
でしたね。自分の人生、物語が転がって展開する方がおもしろいし。
人間、他者から見てどれだけ恵まれた環境にいようとも、自らが幸せだと感じなければそれは不幸なのであるなぁ。今日も1日がんばるぞい!
嫌いな人の事を考えるより、好きな人の事を考える。失ったものを嘆くより、今手元にあるものを大切にする。出来ない言い訳を数えるより、出来る事を数える。そして、究極は、生きる辛さを思うより、生きる幸せを思う。こう考える癖をつけると、世界は変わる。(小池 一夫)
「ゲームに課金したりゲームに没頭した時間って無駄じゃないですか、終わったら何も残らないんだし」って言った子に先輩が言った
「心を動かされた時間が一秒でも無駄なわけないだろう」
という一言を、ゲーマーにエールとして伝えます。
各個人の信仰に対する「責任」は誰も取ってくれない。「私がこんな目にあったのはこんなことを信じていたからだ!」と訴えても誰も取り合わない。自己責任の重み。仏教かどうか、キリスト教かどうか、という個別の宗教に限らず「自分は何を礎(いしずえ)として生きているか」を自覚することは大事。
楽に生きる方法の一つは、流行りものを一切無視すること。服や音楽に食べ物。流行りとはたくさんの人が好きだというだけであって、別に自分が好きだという物ではないのだから、追うだけで時間の無駄である。ワシはどんなにバカにされても、自分の好きな服しか着ないし、好きな音楽しか聞かない
いろいろ手を出してみて、その中から結果、心からやりたい、人生の貴重な時間をかけるに価するコトを見つけたのなら、その他のことは惰性で続けることなくスッパリ切った方がいい。そこまでマルチタスクに動けないし、軸がぶれる。