今様

法然が人びとに語りかけたのは、地獄へ落ちる恐ろしさではなく、すべての人を浄土に迎えるという阿弥陀仏の慈悲についてであった。


平安後期に流行した歌「今様」

その中に、一般庶民が自分の生涯を振り返って、どのような思いに駆られたかを如実に示す歌がある。

*はかなきこの世を過ごすとて
海山かせぐとせしほどに
よろずの仏にうとまれて
後生わが身をいかにせん
「よろずの仏にうとまれて」と、いう文句に深い絶望感が流れている。八百万の神も、諸仏も、すべての神仏たちは背中を向けてさっていく。
「海山かせぐ」
とは、殺生をし、人を裏切り、罪を重ねて働かざるをえなかった当時の大衆の姿だ。
そのなりふりかまわぬ生き方ゆえに、よろずの仏、すべての神々は相手にしてくれない。「うとまれて」
という表現はなんともあわれである。
そんなすべての諸仏に見捨てられた人びと」にむかって、法然は語りかける。
よろずの仏にうとまれた者にこそ、救いとってくださる仏がいる。それが阿弥陀如来だと。

 

 

 

当時の仏教からは、罪深き者たちとされた。世に言う善行を積み、戒を守ることなく生きるがゆえである。
地位や富を持たぬ者たちのすべては、海山かせぐ一員だった。そのようなものたちは仏たちに疎まれる。殺生と破戒に生きる罪ぶかき者たちだからだ。


「後生わが身をいかにせん」
とは、地獄の現実を生き、死ねば必ず地獄行きと覚悟した人びとの心のそこからのため息だ。


修行善行を不要とした法然
考えてみると、法然はおそろしく過激な宗教家である。
彼が藤原家に依頼されて書き残したといわれる『選択本願念仏集』を一読すれば、そのことは一目瞭然だ。
既存仏教の各宗派を徹底的に批判する。そしてこれまでの修行、善行とされたことを一切不要とする。
その論旨は明快だ。時間と、教養と、金のある者たちしか救われない、そんなバカな仏教などあるか、と彼は言う。厳しい戒律を守り、行いを正して、この世間に生きていけるものか。まして天下の大変動期である。飢えに飢えかねて人の肉を食らうことさえある世の中だ。

 

期待値を下げる

「あるべき自分」をあまりにも高く設定すると、「本当の自分」を許せなくなってしまう。また「ありたい自分」を全面に出していると、「本当の自分」を出したときに人をがっかりさせてしまう。でも、考えてみれば、「あるべき自分」や「ありたい自分」をどこに設定するかは個人の自由だ。


 「こうあるべき」とか「こうせねばならない」という呪縛から自由になるためには、自分や他人を早めに、そしてこまめに「がっかりさせておく」ことだと僕は思う。つまり独り歩きしている理想、目標、基準・・・そんなものから距離を置いてみるということだ。
 距離ができると、その理想はそれほど価値があるものなのか、それは誰の思想なのか、といったことを冷静に考えることができるようになる。

 

ニンジンは適切な距離に置かれたときに最も効果を発揮する。

 多くの人にとって到底手の届かない

ゴールよりも、そこに至るまでの充実感のようなものに重きを置いてみる。
「今」心から楽しいと思えることに時間を割いてみるのはどうでしょうか?