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人生を壮大な遊びだと考える

イヤなことはせず、好きなことだけする。
人生を壮大な遊びだと考えてしまえば、あらゆる制約から解放されます。たとえば、ぼくの作品ってすべて未完なんですよ。人間が未完の状態で生まれて、未完の状態で死んでいくようにね。絵を描いていて完成を感じたことなんか一度もありません。描き始めるときは、いつも航海図のないまま出航するような感覚ですね。危険を承知で、旅の冒険やロマンを感じていたいんです。

じゃあ、どの段階で一枚の絵を描き終えるのかと言えば、飽きたとき。もうこれ以上、その絵を見たくないと思ったら、たとえ余白が残っていても次の絵に移る。飽きたということは、次の作品が待っている証拠だからさ。

そしてもし、本当に完成してしまったら、次の絵を描く意味がなくなる。未完のまま終わるからこそ「次」につながっていくわけさ。だから次につなげる通路として、いつも未完の部分を残しておく。

これって人生も同じことじゃないかな。もし人生が完成してしまったら、そのあとどうするのさ。

また根底に人生は遊びなんだという意識があったら、いい意味で無責任になれます。遊びと責任って、いちばん遠いところにあるもんだから。

とくに芸術の場合、責任なんか考えたらどうにもならなくなる。もちろん画家として、自分の絵を描くという行為については責任をもってやっております。でも、描き終わったら、どんな人が買うか、どんな評価をされるのとか、そんな絵の運命は我々の手に終えるものではありません。責任を持とうにも、持ちようがない。


三途の川にある賽の河原で、子供達が積み石をしていると、もう少しで完成だというところで鬼がやってきて全部壊される。ぼくの人生、あれを自分ひとりでやっている感覚があるんだ。自分の中に子供と鬼が同居していて、常に破壊と創造を繰り返している。いつまでたっても完成しないし、完成させない。


やっぱね、としをとってくると肉体的にはしんどくなる一方ですよ。この鈍重な肉体の衣を着ているという事実が、どれだけ不快で、不便で、しんどいものか。

まだ40代のうちは、「肉体を着ている」という感覚もないんだろうけど、だんだん重たく不自由になってくるんです。

ただ、肉体的に不自由になっていくのなら、精神は自由じゃないとバランスとれない。ぼくも昔は、自分の精神年齢を実年齢より15くらい若く見積もっていたんだけど、どこかの段階で乖離した肉体年齢と精神年齢を一致させないといけない。


その答えが「隠居」ですよ!

嫌なことはせず、好きなことだけやる。肉体が自由を失っていくなら、義務や責任から解放されて、精神的な自由を手に入れる。目的も大義名分も捨ててしまおう。若いうちは難しくても、歳をとったらできますよ。老年こそ本当の人生のはじまりだと思う。

未完の人生、遊びの人生、それでいいんじゃない?