今ここに気づく。そしてさまよっていた心を今に立ち戻らせる。

もっと努力しなきゃいけないんじゃなくて、もっと楽をしたほうがいいんじゃないか、ということです。自分を認めてくれる人と会ったり、自分がしていて楽しいと思えることをしたり。

 

自分を見つめることからほんの少し逃れて心を休ませることのほうが大事なんじゃないかと思うんです。

 

何かをすることではなく、自分を責めることをやめることが大事なことではないかと思います。

 

周りからどう思われるかとビクビクしている状態で、何かを楽しむなんて無理です。私は「楽しめた」という体験をまずすることが大事だと思います。

 

安心して何かをやってみてください。「やってみる」ことよりも「安心して」やることが大事なんだと、覚えておいてください。

心の底から楽しいと思えるとき、人は自分がどう見られているかなんてすぐ忘れます。

 

 

将来を考えたときに、個人として出来ることって、結局毎日をただシンプルに、きちんと生きていくしかないのでは?きちんと生きていくというのは、なるべく機嫌良くして、美味しい水を飲んで、出来るだけ体に良いものを食べて、疲れたらしっかり寝て、損得勘定やおかしいと思うことに流されてしまうのではなく、いつも自分でいることとか。もうダメだーって思ったら、もうダメなんでちょい休みます。と周りに宣言するとか、そんなこと。地味で目立たなくて、誰にも褒められない、ごく普通のことを淡々とこなしていくこと。

 

 

この手は昨日の手でもなく、明日の手でもありません。「今」の手です。また、どこか他のところにある手でもなく、イメージで描いた手でもありません。「ここ」にあるリアルな手です。手はいつでも中立的で、そして「今ここ」のリアルな手です。ですから、この手に気づきを取り戻せさえすれば、過去や未来にさまよってしまっていた心を、「今ここ」に立ち戻らせることができるわけです。

 

 

この足は昨日の足でもなく、明日の足でもありません。「今」の足です。また、どこか他のところにある足でもなく、イメージで描いた足でもありません。「ここ」にあるリアルな足です。足はいつでも中立的で、そして「今ここ」のリアルな足です。ですから、この足に気づきを取り戻しさえすれば、過去や未来にさまよっていた心を再び、「今ここ」にたち戻せることができるわけです。

 

 

 

ここで、一つ注意事項を。

 

手のあたたかさであるとか、足が床に触れた感覚であるなどの細かい感覚にこだわらないようにします。それらの細かい感覚にこだわっていると、集中が強くなってしまい、気づきによる「今ここ空間」が開かれにくくなってしまうからです。この瞑想の場合、手や足はあくまでも気づき「今ここ」に戻ってくるための目印の役目を果たすものであり、集中の対象ではありません。したがって、手足に生ずる細かい感覚、あるいは思考のいちいちに集中したり、あれやこれやと考察を図っていく必要はありません。緊張せずにリラックスした状態で、手足の位置確認を一つ一つ丁寧にやっていく。そのような感じで進めていくのがポイントです。

 

われを忘れて過去や未来にさまよってしまった心を、「今ここ」に取り戻すときも、「あ、ダメだ!」と強引に手足を戻そうとするのではなく、さまよった心に対して、「OK」と受け止めてあげて、それから手や足に再び気づきを向けて、戻ってくるような感じにしましょう。

 

 

 

 ときには、強い感情や情動などが生じてくることもあるかもしれません。その場合に、「払おう、捨てよう!」としゃかりきになったり、「早く、早く、体に戻らなくちゃ!」と焦りすぎると、「感情が収まらない~」とさらに強くしがみつくことになったり、「自分はひどいことばかり考えてる~」と自己嫌悪して、苦しみを増幅してしまいかねません。そういうときは、タイ語で言う「マイペンライ(気にしなさんな)」、バカボンのパパの言う「これでいいのだ」くらいの大らかな気持ちで、情動プロセスをあるがままに認めて、気づきつつ、感情が収まるのをゆっくりと待つくらいの感じでけっこうです。そして、少し収まったところで、また手足へ気づきを向けるようにしたらいいでしょう。