早い話が、ひとつの世界にこだわらないで、バランスよく適当に、生きていく。これだけですね。現実の世界も、「適当」っていう余裕があると、適当にうまく進んでいくんじゃないでしょうか。

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本来、内面を見つめるというのは、最終的に、そういう教えとか、(願いを叶える)メソッドとかを超えていくところに、その面白さがあります。

あえて、はっきり言っちゃうと、自分の人生に、思い入れを抱かなくなる、「どうでもいい」と思えるようになると、すべてがなるようになっていきます。っていうか、どうでもいいんだから、なるようにしかなりません。
 

早い話が、ひとつの世界にこだわらないで、バランスよく適当に、生きていく。これだけですね。現実の世界も、「適当」っていう余裕があると、適当にうまく進んでいくんじゃないでしょうか。
 

これで、すべて、万事解決です。そこに、叶わない説明や理由はいらないし、叶う理由と理論もいりません。なぜだか、わからないけれど、叶うものは叶うのです。
 
 

 


そもそもの視点が初めから違うのです。でも、彼らの言いたいことは、シンプルです。「願望なんて、放っておいて、今起きてくることを楽しもうよ」っていう、この一言に尽きるのです。

 

 


だとしたら、繰り返しになりますが、私たちにできることは、目的達成のために、性格を変えることではなく、なにがなんでも、実現しようとするガムシャラな努力をすることでもなく、ただ、今の状況がどんな伏線となっていくのか、他人事みたいに、楽しんでいくことだけかもしれませんね。

 

 

これは、武術の心得とかにも通じるんですよ。武術って、勝つための技の練習だと思うでしょ?でも、違うんです。生き残るための術なのです。だから、戦って勝つためだけの技ととらえた時点で、負けです。状況に応じて、逃げるもありなのです。
 
 
その基本姿勢こそが、冷静な状況判断と的確な攻防を生み出せるというわけです。これって、日常生活にも通じるでしょ。勝とう、なんとかしてやろうと、はやるより、目の前の基本的なこと、ごはんをしっかり食べるとか、今できることをやるとか、規則正しい生活をするとかができていれば、自然に生き方が整ってくるのと一緒です。当たり前っちゃ、当たり前ですけど。

 

 

そう

勝手に誰かをうらやましがって
勝手に誰かみたいななろうとして

でも、自分だから、誰かにはなれなくて
空回りして空回りして苦しかった。


いま
あるもの=与えられているもの
を、活用せず、
それどころか否定して
...
別のモノを欲しがっても
夢見ても
手に入る=与えられる

はずがないよね。

 

 


罪悪感を感じずに怠け続けることが出来るか?最低な自分を愛おしく思えるか?これができるようになるころには自己否定は消え去っているでしょう