気づかぬうちに   自分の気持ちを安定させるために人生を費やしている   ような状態になっていた。   自分を慰めることばかりに時間をかけていれば   時間ばかりすぎていくのも納得だ。   つまりは   このまま拗ね続けている限りは   時間だけがどんどん過ぎ去っていって   自分を慰めることに一生を使い、   何もない人生だった   と思いながら死んでいくことになるんだろう   ということだ。

 

子供の頃より大人の方が行動できる範囲が
  広くなっているはずなのに、
 
 
  可能なことは増えているはずなのに
        どんどん行動しなくなる。
 
  どうせ、という理由をつけて
        勝手にあきらめている

 


『結果』なんて、無理に残さなくてもいい。
 
全世界に『楽しい!!』を発信し続けて、1日1日をポジティブに楽しんで生きれれば、それが十分な『結果』だと思う。
 
人生って、本来、そういうモノなんじゃないのか。

 


爺さん婆さんと接していると大変に勉強になるなー
人生の先輩すぎるからなー
人生好きにやれよ、今しかないからなってメッセージをどんなモノよりも感じるぜ!

 


恋愛や結婚で上手くいくコツが、この人のためなら自分を変えてもいい、意思を曲げたり変化させてもいい
ということを聞いて、自分の中にはストンと落ちましたね
妥協という言い方は悪く聞こえますが、相手の主張といつまでもぶつかり合うより
落とし所を二人で見つける、そんな関係をずっと続けられるのなら幸せなのかなぁと

 

 

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 戸惑いこそが人生だよ、黄猿君ッ!!

 

 


自分から離れたときに、
 
本当の人生が始まる気がしてならない。

 

 

だから、もし今「何もする気が起きない」という人も心配しないでほしい。
それは後退ではない。
無条件に自分を愛するとはどういうことなのかを体感したいと思っているがゆえに、そうなる。
今までの条件付けが薄れてきたから、条件付けによって自分を頑張らせる必要がないのだと気付いたから、
これまでの条件付けで自分を動かせなくなってきた、というだけのことだ。

 

 

もっと遊ぼう、もっと楽しもう、もっと人生を「体験しよう」と思うようになる。
「体験」こそが重要になってくる。
自分にとって好きな遊びを追求したいと思うようになる。

 


夜、めっちゃ辛い頭痛。なんやこれ。

 

1時間して


とりま、落ち着いた。
最近体調悪い。
とにかくだ。
これからの生活を
人生変えるつもりで頑張りたい。ここら辺が勝負どころな季節な気がするよ。

 

大丈夫。多くの失敗を重ねたから。強くなったよ。
これから挑んでいくよ。
挑戦だ!
人生に!

 

 

損するに決まってる。

 

残念ながら

あなたの使命は

 

あなたが考えているような

素晴らしいことでも、

高尚なことでもない。

 

ただ、飯を食って出すだけ

ただ、空気を吸って出すだけ

ただ、生まれて、死ぬだけ

ただ、消費するだけ

ただ、病気になるだけ

ただ、迷惑かけるだけ

ただ、迷うだけ

 

ただ、その

「何の役にも立たない好きなこと」

をやること

 

かもしれないのだ。

 

そして、それが何よりも

誰かの役に立っているのだと

気づくときがくるのです。

 

そのとき

すべての力が抜けて

 

風のように

生きられるのです。

 

 

 

 

 

【ささった言葉】

●「大切にしなければならないことは、ただ生きることではなくて、善く生きることである」『クリトン』プラトン

●「幸福は目標ではなく、結果にすぎない。幸福は追求するものではない。幸福になろうとすれば失敗する」『それでも人生にイエスと言う』V.E. フランクル

●「人が不幸であるとすれば、何が善であるかという知的な判断の誤りである(プラトン)」

アドラーは、「なぜ」という問いによって、行動の「目的」を答えとして期待している。「どこから」ではなく「どこへ」を問うのである。

アドラーは、仕事の課題、交友の課題、愛の課題という人生には避けては通ることができない課題がある、という。これらの課題を解決する能力がないと考える人は、なんとか理由を考えて、人生の課題から逃れようとする。

●人生の課題に挑戦する時、失敗する事、敗北することを怖れる人は、課題から退却しようとする。何をする時にも必ず成功しなければならない、と考え、成功するという保証がある時だけ挑戦する。(中略)症状はこのような目的のために創り出される。

●これとの連関でいうと、悩むのも同じである。悩んでいる限り、決めなくてもいいから悩むのである。悩むことで課題に直面することを延期しているわけである。

●「原因」はいくらでも出してくることができる。

●人は経験によって決定されるのではなく、経験に与えた意味によって自分を決めている、と考えている。

●傷つけられた、と思うことには目的がある。現状がうまくいっていないことの責任を自分に求めず、他の何かに転嫁したり、自分を傷つけた人を断罪し、そのことによって自分の正当性を確認するという目的である。いずれの場合も、問題の解決に向けては一歩も前進しない。

神経症者にとって症状は必要なものである。直面する人生の課題を解決することができないと思い込んでいる人にとって、症状はそれを回避するために口実として必要であるという意味である。

神経症的な意味づけをやめれば「世界は信じがたいほどシンプル」になる。人生が複雑なのではなく、私が人生を複雑にしているのである。

●「人生の目標は幸福になることではなく、自分自身を選ぶことである」(キルケゴール

●自分すらこの自分を好きになれないのなら、誰があなたのことを好きになるというのか

●「何が与えられているかではなく与えられているものをどう使うかが重要である」(アドラー

●「運命論は人生の課題からの臆病な逃避であり、偽りの支えである」(アドラー

●「鳩に抗う空気はその飛翔を妨げるどころか鳩の飛翔を支えている」(カント)

●「一般的な人生の意味はない。人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」(アドラー

 

 

 

 

でも、僕もそうだけど

僕らの役割は「フラグ」です。

 

目立って、何かの例になる。

 

 

そして、それを見て

何かを感じてもらうのが僕らのシゴトで

 

 

 

 

で、あのね

なるときにはなるし

ならないときにはならないし

 

ちゃんと、その人に必要なタイミングは

やってくるみたいよ。

 

 

 

 

「あたりまえ」って

意外とあたりまえじゃないんです。

 

「これがなくちゃ生きていけない」

ものなんて、けっこう少ないです。

 

 

知らない世界って、すぐ近くにもあります。

 

 

だから、そのレールから外れても

人はぜんぜん生きていかれるし

むしろそのほうが自然だったりするんですよ。

 

 

 

 

「パターン崩し」ってそういうもの。

 

 

左利きを右利きにしようとしたら、

最初はイライラしたり

投げ出したくなったりするもの

 

 

 

 

1日3食って誰が決めたの?

 

動物は、寝たいときに寝て

お腹がすいたら食べるよね。

 

行きたいところへ出掛けるよね。

 

まあそこには自然の厳しさもあるけれど。

 

 

「べき」や「ねば」

法律も、制度も、ぜんぶ

人間が決めたこと。

 

それは、生きやすさのためのはずなのに

縛られて、生きにくさになってたりもする。

 

 

 

 

あれもやらなきゃ!

これも出来てない!

と、走り続ける頑張り屋さんも。

 

 

今日も1日、なんにもしなかった・・・!

と「役立たない自分」を責める、

頑張れない屋さんも。

 

 

 

そんな自分をまずは、

それでいいんだよって認めてあげてください。

 

 

だって、そうなるには理由があったでしょ?

 

 

自分なりに、そこにたどり着くまでに

精一杯やって、そこにいるはずなんです。

 

 

 

 

良いことがあったとき、

自分が良い状態にあるときに、

自分を認められたり

わたしすごいって思えるのはあたりまえ。

 

ぜんぜん良いとこないくらいに

落ちて落ちてダメダメなときこそ

ちっくしょー

こんな自分のままでいくぞ!

こんな自分のままでもすごいんだぞ!

って、そのまんまの自分に

マルをつけるチャンスな?