楽しく生きよう。

 

関係あらへんパンツミー!

親父が死んでもパンツミー!

浮気されてもパンツミー!

家が燃えてもパンツミー!

 

 

 

ある時、もう、真面目になるのは諦めて、「不真面目になろう」「人の話を逆に全く聞かないようにしよう」と思った。一旦全部まっさらにして、自分が他人だったときに論理的に考えてやられると困るミスを潰していくようにした。

緊張度を下げてリラックスしてテキトーになることだ。

またあの滑車を延々と全速力で走るような拷問を体験するということであり、その恐怖心からも立ち上がる気力がなくなる。

頑張る方向が間違っているので、まるでハムスターが滑車の中を回るが如く、延々と前に進まないところで必死に走り回っているだけなのだ。ある程度の「不真面目さ」は、やっぱり必要だと思います。

 

落ち着いて気楽に、自分の思考を巡らせられるようにしていきたいです。

自分はいつもなんでこんなに張り詰めているんだ?と気づき、少しくらい不躾でもいいんだ。怠けてもいいんだ。と思えるようになってきました。

 

過緊張、過真面目な人はだいたいが他人の感情や表情や言葉にとても敏感で、それに囚われてしまっていると思います。当人は真面目で緊張しまくって、誰よりも周りの人のことを考えているのに、他人から見たら責任逃れしているようになってしまうのです。不真面目になりたかったんです。今からでも間に合うと信じて、気を抜きつつ、頑張っていきたいです。

こういった家庭環境で育った子供は、年齢が上がって社会に出ていくにつれ、世間とのギャップに苦しみ、なかなか社会に適応できなくなってしまう。社会に適応するのに相当苦労することになった。社会に出た時に挫折して初めて、母の感覚が世間一般値からからかなりずれているということに気づいた。

お金やモノがもたらしてくれるストーリーの方なのです。

すべての願いの根幹には、自分を愛したいという、本物の願いが隠されているのです。

しかし、そのようにして問題や原因を見つけ出して解決しても、心の苦しさから解放されることは、まずありません。

心の苦しさを抱えたまま解決できない理由を突き詰めていくと「心が苦しくなったとき、どのようにすれば良いのかわからない」というところに行き着きます。

それが分からなくなった原因は「自分の感覚・感情・思考・行動を肯定される体験が少なかった」ということです。

 

ここで仮に、「心が苦しくなっても、その苦しさは簡単に解消し、直ぐに穏やかな気持ちを取り戻す」と考えてみてください。

この仮定を前提とすると、日常生活の大部分は、心の苦しさを感じていないことになります。

当然、心のことなんてきになりませんから「心」ばかりに意識が囚われることも、心の苦しさを解消するための原因や問題を探す必要もありません。

ですから、自分の望みを実現するための課題だけに向き合えるようになります。

自分らしさを取り戻すために。

次の3つが必要です。

心が苦しくなったときの対処法を知る。心を楽にするための対処法を実践できるようになる。過去の人間関係の中で消失してしまった自己肯定感を、自分の感覚、感情、思考、行動を肯定される体験を繰り返すことによって回復させる。

悲しいときに悲しんでもいい。嬉しいときに喜んでももいい。望みをもってもいい。失敗しても許される。色んなことが、他の人と違ってもいい。自分の望みの実現を目指せばいい。