生ぜしもひとりなり。 死するも独りなり。

 

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 身をすつるすつる心をすてつれば
 おもひなき世にすみぞめの袖


 身を捨てる、捨てる心さえも捨ててしまえば、黒染めの袖のように、真っ黒にそまった、だれにもなんにも見えない、なんにもとらわれない、絶対自由の世界があらわれることでしょう。そんな唄だ。

 はねろ、はねろ。捨てろ、捨てろ、捨てろ。現世で蓄えた富も名声も、仏を信じる心さえも、はねて、はねて捨ててしまえ。もちろん、ひとは捨てても、捨てても、またもとの現世にもどっていく。でも、それは同じ日常を繰り返しているというとこじゃない。いちどでもいい、死ぬ気で踊り念仏をやってみて、スッカラカンになったとおもうことができたならば、その感覚はかならず残っている。はねちまいな。そういっているのである。

 

 はねて、はねて、はねて戻ったその先に、かならず漆黒の闇が広がっている。手探りでゆけ。暗すぎて、ゆくさきなんてみえやしない。闇をかきわけ、あがいてもがいて進んでいく。たとえ突っ伏しても、なんどでもはいあがってすすんでいけ。なんどでも、なんどでも。壊してさわいで、燃やしてあばれろ。いつだって、黒染めの衣をはおって生きる。散って狂って、捨て身で生きろ。毎分毎秒、我が人生に悔いなしだ。やれる、やれる、なんでもやれる。死ぬ気でやれる、死んでもやれる。

 

 はねて、はねて、はねまくれ。いまこの世で、おまえらああしろ、こうしろとひとの生き方を束縛し、苦しめているのが武家社会なのだとしたら、その根拠となっているロジックを根こそぎにしてやろうじゃないか。常なるものなんてない。ぜんぶ、ぶちこわしてやる。さよなら、じいちゃん。阿弥陀によろしいく。

 

 ただひたすら踊り狂っていた。

 いま死ぬぞ、いま死ぬぞ、いま死ぬぞ。捨てろ、捨てろ、捨てろ。踊って死んで、ゼロから生きろと。相手がだれだろうと、やるべきことはただひとつだ。支配者と戦い、逃げ出すこと。遊行をするということは悪党として生きるのと同じことだ。


 一遍曰く、ひとは生きながらにして成仏できる。念仏をうたい、おどるのだ。子供になれ、獣になれ。ひとはいつだって、なんにだってなれるんだ。さだめられた農民としての生き方なんて捨ててしまって、好きなように生きてしまったっていい。海で暮らしたっていい。山で暮らしたっていい。フラフラしているだけだっていい。
 浄土が見える。お国のためだか、ご主人さまのためだかしらないが、だれかのために、なにかのために生きさせられるのは、もうまっぴらだ。どうせ体でもこわして、米をつくれなくなったら、虫けらのように使い捨てられるのがオチなのだから。ほんとうは、武士だって同じことだ。御恩だ、奉公だのといって、そんなものにつき動かされていたら、虫けらのようにひとを殺し、殺されるようになってしまう。国土なんて、どうでもいい。財産なんてほうり出してしまえ。悪党上等だ。南無阿弥陀物、南無阿弥陀物。

 

  さけばさきちればをのれとちるはなの
  ことはりにこそみはなりにけれ

 咲くならさけ、散るならちれ。花はそうやって、自分の身を自然にゆだねているんだ。わたしたちもそうやって生きていこうじゃないか。そういっているのである。花は咲いたら、かならず散る。常なるものなんてない。でもだからこそ、いまを全力で生きるんだ。死力、死力。イヤなら農業なんてやめちまえ、武士なんかやめちまえ。支配するのも支配されるのも、もううんざりだ。散って狂って、捨て身で生きろ。それが仏の身体を生きるということだ。


 念仏をうたい、浄土をたのしめ。しあわせな歌をうたうということは、あらゆる支配に唾をはきかけるということだ。

 

 

 「じゃあ、どうすれば浄土にいけるんですか」と尋ねると、一遍はこう答えたという。「そんなのかんたんだ。念仏をとなえて死ぬ。ただそれだけだ」


 ほんとうに死んじゃダメなんだ。
いま死ぬぞ、いま死ぬぞ、いま死ぬぞ。
 それは、なんどでもなんどでも再生をはかるということだ。ひとは生きながらにして往生できる。だから、ほんとうに死んじゃダメなんだ。死ぬな、生きろ、死んでも生きろ。

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 ★

 をしめどもつひに野原に捨ててけり
 はかなかりける人のはてかな

 どんなに命を惜しんでいたって、死んだら野原に捨てられてこんなもんだ。ひとの最後というのは、はかないものだよ、という歌だ。ちょっとさみしい歌にもおもえるが、そうじゃなくて、どうせ惜しんでいたって死んでしまうのだから、死んだ気になって思う存分生きてみやがれといっているのである。


  ★
 
  皮にこそをとこをんなのいろもあれ
  骨にはかはるひとかたもなし

 肉がつき、皮がついているからこそ、男女の色別もつくわけだし、色恋も生まれるのだ。でも、骨になってしまったら、そんなひとの形さえありゃしないよねと歌っているのだ。これ、いろいろ解釈ができて、どうせ骨になるのだから、色恋なんてバカバカしいよね、そんなものにかまけている暇があったら、仏道にはげめよというふうにもよめるし、逆も読めるんじゃないかと思う。
 どうせ骨になるこの身なのだから、はずかしがって出し惜しみしてんじゃないよ。男女の仲でも、男同士でも、女同士でもおなじことだが、振られたっていい、きらわれたっていい、自分なんてどうなったっていいから、見返りなんてもとめずに、相手にしてやりいたいと思ったことを思う存分やってしまえ。この肉があるうちに、皮があるうちにと、そういっているようにも読める。

 

 ★
  一声をほのかにきけどほととぎす
  なをさめやらぬうたたねのゆめ

 いま、ほのかにホトトギスの一声をききました。カッコウ、なむあみだぶつ。この声はひとを成仏させてくれるときいています。でも、いまだにわたしが生死の迷いの夢からさめないのはなぜでしょうかと、そんな歌だ。わたしだったらそんなことを言われても、しるかよと言ってしまいそうだが、一遍はちがう。こう返答している。


  
  ★
   郭公なのるもきくもうたたねの
   ゆめうつつよりほかの一声

 カッコウ、なむあみだぶつ? あなたがきいているその一声は、まだ浮世の夢のなかにあります。念仏をこう唱えたら救われますよという、そのこころ自体が自力なのです。はかない夢みたいなもんですよ。ほかなる力、他力としての念仏をこころがけましょうと、そういっているのである。わかりやすい。

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  他力念仏は、わたしたち人間の思慮分別をこえたところにあります。この世のはからいを超えた阿弥陀の本願こそが、わたしたちを浄土に出離させてくれるのです。それは直道といってもいいでしょうか。ほかの仏の知恵さえもおよぶところではありません。ましてや、わたしたち凡人の知恵でうかがいしることなんてできないのです。諸教のおしえに耳をとめないで、ただひたすら阿弥陀の名号を口にとなえ、ほかに我心を用いようとしないのは、唐の善導大師が「疑うことなく、かの仏の願力に乗れば、かならず往生できる」といっていたとうりです。南無阿弥陀仏と唱えて、我心がなくなることを臨終正念といいます。そして、このとき仏が迎えにきてくれて、極楽往生することをお念仏往生といいうのです。


 あらためて、他力本願の基本をわかりやすく語ったというところだろう。自分の力で救われようとしてもダメなんだ。そんなこころさえ捨てて、とりあえず念仏を唱えろ。

 

南無阿弥陀