「今」を足掻くNow❗️

 もう二十代?まだ二十代?

 ある日、まだ二十代の知人たちがインターネット上で「私なんてもうババアだし〜」という会話を交わしていました。初めてこの表現を目にしたときは、正直ギョッとしました。
 例えば反抗期の息子が母親に対して「ババア」などと暴言を吐く場面は昔からありましたが、これは二十代の女性が卑下して「ババア」と自称しているのです。本人としては、女子高生の時の若さと輝きはもう失われてしまった・・・という気持ちのようですが、うら若き女子のババア発言を聞くと、いたたまれない気持ちになります。

 今や人生80年、40歳でやっと折り返し地点。何も二十代で若さの喪失を嘆くこともなさそうなものですが、社会全体のスピードがどんどん速くなり、十年ひと昔ならぬ、体感的には三年でひと昔の今の時代。若さへの焦燥感も加速度的に増しているのかもしれません。


 若さへのとらわれ

 もう若くないと過剰に卑下するのも、いつまでも若くありたいと固執するのも、根本はひとつ。若さへの執着と、老いへの恐れ。かつての自分を憧憬し未来の自分に怯え、今を見ていないのです。

 過去の栄光に焦点を当て、今を否定するような言動はかなしい。若さにとらわれている自分の姿を照らし出す仏様の知恵をいただき、そのかなしさを超えていきたいものです。

 

f:id:rockmanlife123:20171002080308j:image清涼な空気に満ちていた

 

死とは

 私たちが生まれたとき、唯一最初から決まっていうのはいずれ死ななければならないということだけです。そのように私たちの人生は一見「生から死」までという形できれいに区切られているように見えますが、実際には生前や死後といった流れがあります。


 古代では私たちが実際に体験する誕生から死までのいわゆる「現世」の領域と「他界」つまり死後の世界であるとか生前のことというのは同じ重要性を持っていたんですけど、それが中世になるとむしろ他界の方が大きなウエイトを占めてきました。しかし近世になると他界がどんどん小さくなり、現在ではもうそれを必要としない国や文化も出てくるくらい、私たちは現世に重点を置いて生きようとしています。この現世中心的な物の考え方というのは「無宗教」という言葉でも表されます。

 

 死んだらどこに行くか?

 柳田国男によれば、日本人の観念には死者は遠くへ行くのではなく近くの小高い山から子孫を見守っており、定期的に懐かしい我が家へと帰ってくるという考えが強いと言われています。これは仏教的というよりもむしろ日本人独自の感覚で、仏教伝来以前から既に日本人はこのような感覚を持っていたのではないかと思います。

 ですが、近年少子高齢化孤独死などの問題によって社会が急激に変わってきているというのは明白です。そんな中で、死について自分ひとりで考え準備していきましょう、という流れにどうも世間はなっているようです。それはそれで結構なんですが、気になるのはまるで「死」というものがひとりの人の話であるかのように聞こえてしまうところです。


 もう一度、日本において「死」とはどういうものなのか考えてみますと、それは決してひとりの物語ではなく、たくさんの人の人生・命が重なって初めて語られるものではないかと思います。
 誕生から死までで完結する物語ではなく、物語自体は自分が生まれる以前から続いていて、その中のある場面で私がたまたま主人公として登場し、やがて退場(死)していくんですが、物語自体は未来にわたってずっと続いていく。そういう感覚をもたらす日本の基礎文化の中にこそ、死を受け入れる為の大きなヒントが潜んでいるのかもしれません。