来年の正月は、わしはもうおらんぞ

 

f:id:rockmanlife123:20170925210243p:image

 

仏法には明日という事はあるまじき

 この言葉は、本願寺第八代の蓮如上人の言葉として伝えられているものです。


 仏の教えを学ぶには、世間の用事を差し置いて聞かねばならない。世間の用事を済ませた後で、時間ができたら聞いてみようというような心構えではいけない。仏法においては明日ということはあってはならないと蓮如上人


 今日という日を大切に、という戒めは、初期の経典から繰り返し強調されてきました。『中部経典』には、次のように説かれています。


 過去を追ってはならない。
 未来を期待してはならない。 

    およそ過去とはすでに過ぎ去ったものである。
 また、未来とはいまだ来ていないものである。
 現在あるものごとを、動ずることなくよく知って
 今まさになすべきことに努めよ


 「過去」とは「過ぎ去ったもの」で、「未来」とは「未だ来ていないもの」です。そのことに、その通りだとうなずくよりほかはありません。過ぎ去った過去の出来事のすべては、今という現在の中に集積しており、未だ来ていない未来のことは、その今をどう生きるかによって左右されるのでしょう。そうであるなら、時間というものはリンゴ箱を並べたように過去・現在・未来が並んでいるのではなく、もともと「今」という一瞬しか存在していないともいえるでしょう。

 私がまだ小学校だったころ、祖父は正月が来るたびに「来年の正月は、わしはもうおらんぞ」といいながら雑煮を食べておりました。めでたい正月早々に、何をいっているのだろうと思ったものでしたが、今にして思えば、それは一種の覚悟だったのかなという気がします。

 元旦や 今年のオレの 死ぬる年

と読んだのは『念仏詩抄』で知られた木村無相さんでした。しかし、これは悲観的な嘆きではないのです。

 元旦や 今日のいのちに 遇う不思議

という心境の裏返しっであることを、見逃してはなりません。

 一年を凝縮すれば今日ということになり、今日はすなわち「今」に集約されます。それ故に、古人は「出る息は入る息を待たず」とも伝えてきたのです。息を吐き出し、また吸い込んで呼吸をしながら私たちは生きているわけですが、そのはき出した息を吸い込むことができるかどうか、誰にも分からないのです。ふぅーっと息をはき出したその瞬間、吸い込む間もなく息絶えても不思議ではない、そういう今を生きながら、そのことに気付かず今まで生きてきたことに気付くのが仏道の第一歩なのです。

 

 では、「今まさになすべきこと」とは何でしょうか?


道元禅師は『修証義』の中で、
 生をあきらめ死をあきらむるは、仏家一大事の因縁なり


と示されています。生とは何か、死とは何か、それを明らかにすることが、仏法を学ぶ者にとって一番大事な、一大事であるというお示しです。蓮如上人は、それを「後生の一大事」と教えてくださいました。「後生」という言葉は、生まれる前を前生といい、生きている今を現生というのに対して使う言葉ですから、言葉としては死後のあり方を問題にしているように聞こえるかもしれませんが、そうではないのです。いつ死ぬかわからない、いつ死んでもおかしくない私が、今生きているとはどういうことなのか、そのいのちの意味を明らかにしなければ、人生はむなしく終わるのだという危機感を、「後生の一大事」と言われているのです。

 


 一大事と申すは、今日ただ今の心なり

この言葉は、正受老人と呼ばれた江戸時代の禅僧、慧端禅師(1642~1721)

これも合わせて味わっていただけたらと思います。