ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず

 

 

一度無常の風吹けば 花のすがたも散りはてぬ

 

 

    仏教の教えを端的に示したものとして、昔から「三法印」ということが示されてきました。それは、

 ①諸行無常
 ②諸法無我
 ③涅槃寂静
という三つの教えのことですが、それぞれ、
 ①あらゆるものは移りゆくものである
 ②だから「我」という固定した実体はない
 ③その道理に目覚めることにより、静かな安らぎが得られる
という意味です。この三法印の中で、日本人に最も受け入れられているのが「諸行無常」という教えだったといえるでしょう。

 鴨長明(1155~1216)の随筆『方丈記』には、

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし世中にある人とすみかと、又かくのごとし。

と記されています。川というものが昨日も今日もそこにあるように見えても、流れている水は同じ水ではなく、いつも移り変わっているように、この世にある人も住処も、永久にとどまるものは一つもない、ということの述べたものです。


 また、栄華を誇った平家一族が滅亡に至る様を伝えた『平家物語』の冒頭が、

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。


という一節から始まることもよく知られています。祇園精舎というのは、釈尊在世時に寄進された古代インドの僧院の名前で、沙羅双樹の花の色という表現は、釈尊の入滅を悲しんで沙羅の樹の花が散ったという伝承に基ずくものです。

 「一度 無常の風ふけば 花のすがたも散りはてぬ」

この聖句は、一遍上人時宗の開祖・1239~1289)の語録に見える言葉ですが、同じような表現は、親鸞聖人の伝記にもうかがえます。親鸞聖人は、藤原一門の流れをくむ日野氏の長男として生まれながら、九歳のときに、出家して比叡山の僧になったと伝えられています。伯父の日野範綱に連れられて、慈園僧正のもとで出家を願い出したところ、師僧は、

 「幼い身で出家を志すのは殊勝であるが、もはや日も傾いてきたので、出家の儀式は明日にしよう」

といわれました。すると、少年だった親鸞聖人は筆と紙を持ってなにかを記し、僧正に差し出されたという。そこには

  明日ありと 思う心のあだ桜 夜は嵐の吹かぬものかは

と書かれていました。僧になる儀式は明日にとの仰せですが、今咲いている桜の花も今夜の間に嵐が吹けば明日は見ることができません。私のいのちも明日という日があるかどうか、わからないのが人生ではありませんか。という歌です。

 これを見た僧正は大変関心され、それから早速準備をして、夜のとばりの中で灯明をともして出家の儀式がとり行われたということです。


 このように、仏教では無常ということを繰り返し強調してきましたが、それは決して、はかない人生だと嘆くことを奨励しているのではなく、むしろ逆で、いつ死んでもおかしくない身であると自覚したとき、はじめて一日一日の生が深く尊いものとなることを教えようとしているのです。
 また、やがて死ぬべき身を生きていることに目覚めると、人生の価値に対する見方に大きな転換が起こります。まだまだ五年、十年、死ぬはずがないと思って暮らしていると、学歴や社会的地位、財産や健康といったものが大切な価値あるようなもののように思われます。

 しかし、どんなに立派な学校を出て、名誉ある地位を獲得し、財産を蓄え元気で暮らしていたとしても、最後は死んでいく人生なのだと気がつくと、それらの価値を所有っしようと生きてきた人生は、空しいものでしかなかったということになるのでしょうか。そのときこそ、人として生まれた本当の意味をたずねる生き方が開けてくるのです。

 

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 昔、ある人が「念仏はどんな気持ちで唱えたらよいでしょうか」とたずねたところ、空也上人は「捨ててこそ」と答えたという話が西行法師の『選集抄』に載っているが、これは実に金言である、と述べられているのです。

 空也上人というのは、平安時代中期に民衆の生活の中に入って念仏を勧められたことから「市聖(いちひじり)」と呼ばれた僧であり、西行法師もまた世俗の権威を捨てて歌道を歩まれた方です。一遍上人は、すべてを捨てて各地へ遊行しながら念仏を勧められ、「捨聖(すてひじり)」と呼ばれた人ですが、そうした生き方の根底には、深い無常観があったといえるでしょう。