どうせ死ぬのに、という問い自体を消すための行

 

私はふだん、「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」と自問自答することが多い。しかし、そういう問いを発するときの自分をよく観察してみると、それは「自分が精神的に安定していないとき」であることに気づく。その証拠に、すべてが上手くいっているときには「どうせ死んでしまうのに・・」とはあまり考えない。

本書に記述されている「行」をやってみると、不思議と心が落ち着いてくる。とくに本書で紹介されている「自分を道具と同調させる方法」を実践すると、自分と世界の境界が溶けてあいまいになっていく気がしてくる。このとき「『どうせ死ぬのに・・』という問いを発する主体」であるはずの自分が溶けてしまうため、それと一緒に、「どうせ死ぬのに・・」という問い自体が霧消してしまうことに気づいた。

だから本書は「どうせ死ぬのに・・」という問いに(言葉で)答えを出すための本ではなく、問いそのものを無力化することで「問いを超える」ための本なのではないだろうか。すくなくとも私は、本書をそのように理解している。

ただし一度は消えたと思っていたはずの「どうせ死ぬのに・・」という問いは、「行」をサボったら再び頭を持ち上げてきてしまう。なるほど、だから「行」は「毎日やること」が非常に大事なのか、と納得した。

「誰かに親切にする」というのも、大事だと思う。「わたしは誰かに必要とされている」という実感は、自分が生きる理由を納得させてくれるものなのではないだろうか。

以下に、私が本書の重要ポイントだと思った点を記す。

・「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いに対して答えを出せないことが、誰にとっても、漠然とした不安の原因となっている。この問いに答えるには理論的説明だけでは足りない。仏教は、この問いに対して実践レベルで具体的な答えを出せる。
・「行」とは、心の波を静かに落ち着かせる方法である。
・「行」の初歩として、姿勢を整えて呼吸してみるとよい。
・「行」には、「行をするとこんないいことがあります」という実利が明示されない。行や瞑想にによって得られる成果は感覚の経験である。感覚は言葉にはならないため、実利を明示できない。行とは、自分が変化する経験のことである。「変化する前の自分」は「変化した後の自分」のように感じることはできない。「わからないまま、ただやる」ことで、私たちは「言葉で説明できる限界を超えることができる」。言葉や理屈は、私たちを「わかった気にさせる」ものの、私たちをかえって現実から遠ざける場合が多い。「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」の答えは、言葉ではなく、言葉を超えた「現実」の中にある。この問いの答えが欲しければ、現実を「ありのまま」に捉え、その中で生きていく「力」を身につける必要がある。
・実利によってモチベーションを長期間維持することはできない。人間の自発性を刺激するのは、「マイナスを埋めたいという願い」だけである。
・心とは、瞬間ごとに変化しつづける運動である。心は自分自身ではない、と仏教は述べている。心が嵐の海のように荒れ狂っていても、「自分自身」は、深い海の底に安定した水域として「ある」ものである。このような「自分自身」を「仏性」と呼ぶ。
・人間が克服すべき三つの煩悩は、怒り、欲深さ、無智である。これらを、瞋(しん)、貪(とん)、痴(ち)と呼ぶ。とくに怒りは、最も人間の能力を損なうものである。
・「行」は毎日やることが大事。
・「行」に取り組むと、自分という枠組みが溶けていく感覚が得られる。これが心に平安をもたらす。たとえばアイロンがけをするときも、自分をアイロンを同調させると、アイロンと自分が一体化したような感覚が得られて心が落ち着いてくる。
・「行」の理想のあり方は、身体、言葉(お経など)、意識の3つ(これらを身、口、意と呼ぶ)がぴたりと合わさることである。行に取り組むことにより、過去からの因縁(遺伝と環境の影響)を断ち切ることができる。なぜなら、行はその人の習慣からかけ離れた身・口・意を日常の中に持ち込むからである。
仏教的な瞑想を続けていると、自分の認識している世界が自分の心に映った現象に過ぎないということを、実感をもって感じられるようになる。
・「方便」とは、困っている人に親切にすることである。理想的な方便は、自分の心を静かに保ち、困っている人にスッと手をさしのべ、次の瞬間には忘れてしまうというものである。
・慈悲の「慈」とは「相手が成長することを願う気持ち」であり、「悲」とは「相手の立場を理解する」ことである。すなわち慈悲とは「相手の心に感応したうえで、相手の成長を願うこと」である。これとは対照的に、仏教では恋愛は煩悩であるとされる。「いつも一緒にいたい」とか「相手をコントロールしたい」といった具合に、多くの場合、恋愛には相手に対する敬意が欠けているからである。