今という時に適応しすぎない。時に無視するくらいでもいい。

誰に何と言われようと、自分の幸福を定義できるのは自分しかいない。そして自分が頑張ろうと思ったことをしなかった事実が招くのは、単純な、わかりやすい不幸だ。
結局は何を頑張るかを自分で規定することそのものが価値で。あり、自分で設定することができれば、結局大体のことは解決する。

自分の成長だけを見てないと、かえって成長できない。周りのペースに合わせようとすると、かえって先に進めない。これは自分が要領が悪いと考えている人ほど、心に刻んで欲しい考え方だ。だから周りの目、外的な基準、人との競争は、自分の中から捨て去ったほうがいい。自分が思考し続けることが本当の価値なのだ。

自分の成長を判別するのは自分の内的な評価であって、外的な評価に依存しないことを知っている。だから、外野からいかに批判されようと、基本的な対応は決まっている。言葉は悪いけど、「知るか、バカ」ということだ。

 

 

 

よし、無事に早起きできた。本日の課題のうちの一つをクリアしたぞ。
 最近はかなりやる気はなかった。しかし、本日から、また少しづつがんばっていけそうな気がするぞい。生きるのはめんどくさいけど、それでも今日は少しがんばれそうな気がする。うん、たくさん休んだものね。がんばっていきましょう。

 我をよりどころとする人間が仏法に遇う。そこには法に出逢うことができた深い喜びがあり、受けがたい人身を受けたという大きな感動がある。
 しかし、いつしか心が怠惰となり、感動を失ってはいないか。
 厳しい暑さの中にあっても、謹んで正法を聴いていきたいものである。


 合格点を高く設定している人ほど、自分を一向に認められずに、苦しむ。
 その裏側には、ちっぽけな自分を認めたくないという気持ちがあり、「自分はこんなもんじゃない」という見栄や意地、希望なんかもあり、そんないろいろが、ぐちゃぐちゃになって苦しんでいるんですよね。

 でも、そろそろ認めてしまってはいかがでしょうか。
 今の自分を認めるために高い目標を設定することと、今の自分を認めている人がさらに高い目標を設定することは、まったく違うのです。

 あなたは「こんなもの」なのです。

 で、「こんなもの」でも、大丈夫なのです。


自分を受け入れ、認めるには、高く設定しすぎた合格点を、まず、ぐぐっと0点ぐらいまで低くしてみること。

 これは、成長しようとがんばってきた人、高い目標を定め、そこに到達することが「成長」だと思ってきた人からすれば、そうとう勇気のいることでしょう。
 でも、とにかく合格点を下げること。そして、最終的には「合格点」「結果」「目標」といった基準ですら、なくしてほしいと思います。

 あなたは「こんなもの」。


___向上心など捨ててしまえ。

「え、自分は、本当にこれでいいの? そっか、いいんだ」
そう思えた瞬間から、びっくりするような成長が始まります。

 となれば、「成長したい」なんて素晴らしい向上心は、捨ててしまえ。あなたに必要なのは、がんばることではなく、今の自分を受け入れること。
 成長したい、向上したい、という裏側には、つねに「ダメな自分」という「前提」があります。
 でも、本当は、「ダメな自分」が存在するのではなく、「ダメな自分がいる、と思っている自分」がいるだけなのです。

 

 

 

なにか新しいことをやりたいってのはあるよな。こうなんか開けていくイメージのことさ。このままだと先がつまってきている感じがある。うーーん、なんか楽しくて、先が開けているもの、・・・・・・・言葉にすれば、それは“希望"ってことじゃないのか。

希望、そうか、希望が足りないのか。。。。

しかし希望ってなんだろう?

俺に希望はないのだろうか。希望とは若さだと思う。

若さとはなにか、、、、たぶん、俺にはその若さというものが足りなくなっているのだろう。若さがつき欠けているのだと思うんだ。

子供をつくればいいのだろうか?


今の俺には無理だから、これはパス。


何かを生み出したい、若い人と交流したい。


そんなところか?


なんか、こう「仕事」がしたいって感じなんだと思う。社会とのつながり。

社会とのつながりを通して自分を拡張したい。そんな欲求だろうか。チャレンジする欲求。なにかにまっすぐに取り組みたい欲求が俺の中にグツグツとして存在している。それを解放してやりたい。

しかし、そのための何かが見つからないでいる。どうすればいいかなぁ。考えるより試していきたい。今、また少しずつ力が溜まってきたということなのだろうか。社会にふれて。

もっと面白いことがしてみたいな。