苦から自由になる教え

 

「なぜ、生きるのがこんなにつらいのだろうか」
「どうすれば、この苦しみを消すことができるだろうか」

そんな切実な悩みを抱えながら生きていらっしゃる方も、昨今はけっして少なくないでしょう。人がこの世を生きていくということは、さまざまな苦しみがつきまといます。その「苦」というものに、真っ正面から取り組んだのがブッタです。

実際、ブッタの教えを実践すると、心が満たされ、とても幸せになります。たとえば、子供の頃、特に何か大きな出来事があったわけでもないのに、日常のごく素朴な一コマにも心を踊らせていた記憶はありませんか。そのようにイキイキとした感覚は、大人になっても十分取り戻せます。これまでに身につけた豊富な知識、明晰に考える知性を携えながらも、子供のようなみずみずしい感性をもって、やすらぎと喜びに満たされながら生きられるようになります。

 それは、モノや地位などの外部要因に依存せず、自らで生み出し、自らが主となり、自らをよりどころとして培っていける「内発的な幸せ」です。
 具体的に言うと、このようなものです。
①煩悩や世間の風評に翻弄されず、いつも清々しい心でいられる。
②心配や不安に心を騒がされることがなく、いつも落ち着いていられる。
③一切のものごとをあるがままに見て、広くて深い理解を得られる。④不満や孤独、さびしさを感じることがなく、元気はつらつとして、満たされている。
⑤他人の幸せを願い、他の繁栄を喜べるような、成熟した心を持てる。
 いかがでしょう、なかなかいいかんじだと思いませんか?これらは、「宝くじが当たった」とか「一流企業に就職できた」などといった外部要因、あるいは特定の条件に左右される幸せとはちょっと趣の異なる、より繊細で妙味のある幸せと言えましょう。こうした幸せを、ブッタの教えを実践することによってたしかに得ることができます。
 しかし、あえてこの本の中では「幸せを得る教え」という表現はせずに、「苦を滅する教え」、あるいは「苦からの解放(自由)を得る教え」という文脈で語りたいと思います。
 なぜかと言えば、一般的には、「幸福=外側の何かを得ること」と考えられているからです。それゆえ、「幸せを得るために」といった文脈で語ると、外側の何かを求める方向、あるいは結果だけを欲する方向、すなわち、ブッタが避けるようにと教えた「欲(渇愛)」のほうへと意識が向かってしまうかもしれません。そういった誤解や混乱を避けたいがためです。
 また、私自身、ブッタが「苦しみ」をテーマにしたことに大きな意義を感じています。「幸せを得る」ではなく「苦を滅する」に焦点を当てたことは、ブッタならではの卓見であり、このアプローチであったからこそ、ブッタの教えがより多くの人たちのためのものとなり、また、重要な意味を宿したものになったのではないかと思います。
 そう思う理由は、二つあります。
 まず、ひとつは、「苦しみ」は古今東西、老若男女、誰もが直面する問題であるということです。そして、それは一生に一度二度、あれも出会うというものでもありません。日々いや、よくよく見れば、一瞬一瞬刻々と遭遇している事実が垣間見えてくるかもしれません。苦しみは、それほどまでに私たち誰にとっても身近で、かつ日常的な現象であり、また、そこから解放され、自由にイキイキと毎日を生きたいと願わない者はいないという切実な課題です。

 もうひとつは、「苦しみ」というものが「知恵」と「慈悲」の結節点になっているという点です。「苦しみ」克服のプロセスは、そっくりそのまま「智恵」醸成のプロセスと重なってきます。同時に「苦しみ」を自らでしっかりと感じ取り、見つめ、理解することは、「苦しみ」という厄介でつらい体験を共有し合う他者、さらには生きとし生けるものすべてに対する共感の念、あるいは「慈悲」の心を培うことにもつながります。
 

 仏教は決して死者のための儀式でもなく、哲学的な思索に留まるような机上の空論でもなく、また、一部の人たちのための悟りマニュアルでもありません。この世に生を受け、苦しみに直面する人間だれもが活用できる苦しみからの解放の教えであり、その道を歩み始めるものは、今この瞬間から苦しみを減ずることができ、やがては完全な滅苦にまで至ることができる、そういう教えです。