忘れないでおきたい、苦しみは解決できる。

しょうがないからそのまま苦しみ続けていなさい、だなんて、ブッタは言っていなくて、

 

苦しみを感受したら、それをよーく見つめてみよう。そうすればちゃんと解決できるよ

苦しみは人生のそこかしこで与えられる練習問題みたいなもの。問題を与えられたら、一つひとつ解いていったらいんだよ。

 

 

ブッタはすべての苦しみは解くことができるよって言っているだ。

 

まずはしっかりと「ああ、今ここに苦しみが起こっているんだ」って気づくことが大事

 

たとえどんなイヤな気分であれ、激しい感情であれ、まずはそれに自分でしっかりと気づくこと。そして、それをちゃんと受け止められれば、次第にやわらいでいくもんだよ。

かんしゃくを起こした赤ちゃんが、お母さんの胸にやさしく抱きかかえられているうちにウトウトと眠ってしまうように

 

 

 

かんしゃくを起こして泣きわめいたり、不安や恐怖に怯えたりといったことは、なにも赤ちゃんに特有の現象ではありません。よくよく見れば、私たちの内面においてもしばしば起こっていることです。自分の心に生ずるそういった感情を無視したり、責め立てたり、あるいは抑圧したりしたらどうでしょう?泣いている赤ちゃんを放り投げたり、どこかに閉じ込めたりすることと同じことになるのではないでしょうか?

 

 

私たちの内面に生じてくる苦の感情もまったく同様ではないでしょうか?苦しみの毒性をさらに強めてしまうか、あるいは、苦しみを上手にやわらげ消化し、豊かな滋養分に変容させていくかは、その苦しみにふれあった際の私たちの対応しだいではないでしょうか。

 

幼児に対する「ネグレクト(無視)」や「虐待」が話題になる昨今ですが、自身の心の内に生じてくるさまざまな感情への気配りも忘れずに、その時々の対応を図っていくことが大事ではないかと思います。無視もせず、戦いもせず。

 

 

問題が生じてくるのには、必ずそれ相応の原因が存在します。そこで、問題をあるがままに受け止め、原因を把握し、それに適切に働きかけていくという「四聖諦」の実践により解決がもたらされます。それによって私たちの苦は滅せられ、心の平安が取って代わり、他者とともに喜びあえるようになります。このプロセスを進行させていく鍵が他でもありません。「今ここ」のあるがままに気づいていくことです。

 

 

 

托鉢中は歩行瞑想の要領で歩きましょう。一歩一歩しっかりと自覚して、『今ここ』に気づきをもって歩きます。ただその際、足に集中しすぎないように。通常の歩行瞑想のときよりももっとオープンハートな感じでいいですよ。心を開いて、五感を研ぎ澄まし『今ここ、今ここ』に目に入ってくる景色、聞こえてくる音、漂ってくる香り、寒さや暖かさ、お日様の光、皮膚に触れてくる風の感触など、存分に味わってみてくださいね。それか供物を受けたあと、僧侶は短い祝福のお祈りの言葉を唱えます。そのときには腰をおろして合掌し、村人の健康や幸せを心の中で祈らせてもらいましょう」

 

 

 

 

手の動きや足の動きを目印にして、『今ここ』に気づくように。過去や未来へと心がさまよい始めたら、またすぐに『今ここ』に立ち戻れるよう。

 

 

「今ここ、今ここ」の一歩一歩に注意深く気づきながら歩行瞑想の要領で歩きます。その際、ハートも開き、五感を通して触れるさまざまな光景、音、香り、そして肌の触感などもあるがままに受容し、感じ取っていきます。

 

一見すると、「一歩一歩に注意深く気づきながら歩く」ことと、「感覚的刺激に対して心を開き受容する」ことが矛盾した行為のように感じられるかもしれません。それは「注意深く気づく」という作業が、一般に「集中」と捉えられがちだからです。しかし、ここで言う「注意深く気づく」は、焦点を足などの一点に絞ってそこに意識を当て続けるということではなく、むしろ足という具体的なものを利用して、今ここにあるがままに生じている現象を対しての「覚醒」化を図っていくということです。

 

すなわち、今歩いているこの足は、昨日の足でも、明日の足でもありません。また、どこか他のところにある足でも、イメージによって描かれた足でもありません。「今ここ」にある現実の足です。想念はいつの間にか、過去へ、未来へ、あちらこちらへと漂い始めます。そんな今ここに心あらずの状態になったら、なるべく早く「今ここ」のリアルな足に意識を立ち戻らせるのです。それによって、夢想状態から醒めていくことができるのです。

 

 

このような「覚醒」や「気づき」といったものを体得し始めると、緊張したりボーッとしてしまったりせずに、リラックス状態で高度に集中したり、目覚めた状態でハマり込むことなく感覚・感情体験を味わうことが可能になってきます。

 

それによって、あるがままの微細な意識の流れやその法則を観る道も開かれてくるのです。

 

 

「布施」行という実践。自身の所有物を他者に分け与えるという行為自体が、我欲を捨て、他者に思いやるという心の習慣づけを推し進めていくからです。そして自身の苦しみの芽をあらかじめ摘むと同時に、慈しみ合いを基盤とした共同体を築く礎にもなっている。

 

 

気づきの瞑想によって外部の「今ここ」だけではなく、自身の内部の「今ここ」にも徐徐に明かりが灯されていきました。それによって、消えるとまた描き、消えるとまた描き……と無自覚に描き続けていたイヤなイメージの描写作業もやめることができたのです。そして、明るく、清々しい意識でイメージを思い起こしたとき、「ここにこうして来られたのも、上司のおかげだよな~」といった気持ちまでもが生じてきたわけです。

 

 

 

最初のうつ状態の原因は、明らかに心が今ここにあらずの状態で、「イヤな」上司とそれに派生するネガティブなイメージを無自覚に抱き、それを頭の中で繰り返していたことだったのでしょう。さらに自らが描いたイメージに反応して、怒り、憎しみといった情動を増幅するという悪循環、そういった思念の虜になっていたところにあったと言えます。

 

 

「与える」という行為を通して、与える者も、与えられる者も、そしてその姿に触れる者も、こうして共に癒され、成長し合える。