恐怖や不安から酸素は減る。無駄に酸素は減らさないが吉。

追い込まれている時、自分が縛られているものを、人は見る事ができません。
だからそういう状態で、いくら考えても答えは出ません。

そういう時は少し休んで、離れることです。遠くから見れば自分を縛っているものが何か見える。それには心の余裕と距離が必要なんです。

 

一つ覚えておいてほしいのは、人生はなんとかなるということです。そして悩んでいることも後から振り返ると、大したことはないと思えたりするものです。
やめてもいいし、続けてもいいし、休んでもいい。

自分に許可を与えて、離れたところからもう一度何がしたかったのかを
考える時間が大事。


みんないびつで、いびつだけどそれがどうした、というふてぶてしさがある。


馬が枯れ草を食べている。自分も馬みたいになりたいとオオカミが草を食べている。オオカミは自分が何に生まれついたのかを忘れている。馬は馬を極めたから輝いた。


他人に嫌われることは罪でも何でもない。
“真面目なアスリート”はここに罪の意識を感じ、自分らしさを捨ててしまう。
少数派にすぎない批判的な意見を過剰に取り入れ、どこから見ても問題ない、丸い特徴のない存在になっていく。


“たかが”だから結果を気にせず気楽に全力になれる。
自分が自分のままでいるだけで、ある一定の確率で人には嫌われる。
嫌われることを先延ばしにしない。嫌われるべき時には嫌われること。
人に嫌われることを恐れて自分の可能性を捨てぬこと。

 


「何かのために走ること」の限界


もっと自分の内側から自然に湧き出てくる純粋な気持ちで走りたい。
訳もなく、ただ走りたい。という気持ちがなかったら、この先戦い続けられない。


その頃だった。
「たかが陸上じゃないか」

「べつにハードルで勝ってもたいした意味はない」

「ただ楽しいから走っているんだ」

一つ一つ「自分」という意識を消していくことを試みた。

 

〈忘我〉状態になることへのヒントがある。
こどもが遊んでいるのを見ると、何も考えず、遊びの世界に没頭しきっている。

自分が遊んでいるということすら忘れてしまって、ただワクワク楽しい時だけをすごしている。そんな時間があっという間に通り過ぎていく。

遊びの「面白さ」は、どんな分析もどんな理論的解釈も受け付けない。


自意識から解き放たれて、勝手に体が動いている。


「期待に応えなきゃ」
「みんなが応援してくれているから」
「失敗したらどうしよう」
といった雑念がまったくない時間。


「やるしかない」という開き直りと
「今できることをやる」というシンプルな集中ができていて、

自分自身を何かに委ねてしまえる感覚。
意図やコントロールとはちょっと別次元の状態だ。

 

僕の仮説では、余計なことを考えて不安な気分になればなるほど、脳が余計に酸素を消費してしまうのではないかと思う。


だから、

今この瞬間だけに夢中になることができれば、呼吸は一定になり

余計な酸素を使わずに済み、


結果的に身体は安定する。

 

怖くてその先を想像したりすると、素潜りだけでなく、たいていの物事はうまくいかなくなる。不安な状態では良い結果が出ない。

 


当たり前のようだが、反対に自分が楽しい状態を保てると、余計な酸素は消費せず、身体もいいパフォーマンスができる。

 


その姿は「自分らしくそのまま行けばいいよ」というノリに近い

もし、本当に苦しくなった時は、天を仰いで祈るだけ。なんともシンプルなのだ。

大実験の中で、小さな実験を繰り返した。

トライ&エラーを繰り返し、変わったことをちょっとやってみようと実験を繰り返した。

 

努力を実現するために、人間に先天的に与えられた能力、それが「遊び」なのだ。


遊びの領域のなかでは日常生活の掟や習慣はもはや何の効力にもなっていない。
われわれは別の存在になっているのだし、別のやり方でやっているのだ。

面白いと思ってやりさえすれば続く。
続きさえすれば身体が覚え、それなりの技術レベルに到達することができる。


「理解してほしい」という思いと同時に、
「自分はここにいるんだ」という自己証明を。


コミュニケーションは常に変化していく。予測がつかない。

変化にしなやかに対応できること自体、うれしいし、おもしろい。そして楽しい。