曖昧にすることの効用

曖昧力

曖昧力は日本人力

日本人には、もっと堂々と世界に対して発信すべき
「ものの見方・感じ方・考え方」がある。

いい加減のようでいて実は融通無碍(一定の考え方にとらわれることなく、どのような自体にも滞りなく対応できること)
「あやふや」なようでいて実は柔軟でしたたか
「優柔不断」に見えてじつは悠々の自然体。
「宙ぶらりん」と見えたのは、じつはよりよい結論を導くための段取り。
成り行き任せに見えたのはじつはより高度な戦略性・・・・・・。

現代、ともすれとないがしろにされがちな、この日本人本来の資質、「曖昧さ」は、じつは
中国陰陽五行思想の「陰陽」のように、表面的な“弱み"の裏に意外な“強み"を持っていると私は考える。

 

その曰く言いがたい力のことを、私は「曖昧力」と呼ぶことにした。


「曖」は覆い隠すの意味
「昧」は夜明けのほの暗さ

を表す。

暗くおぼろげではあるが、明けていく期待のようなものを感じる。

 

西欧的な二元論、二者択一の理論の破錠


自分の信じるものが絶対に正しく、他者の信じるものがそれとは違う場合は、断固拒否し、排除するという「原理主義」が、果てしない争いの世界を生み出している。


「なんとなく」というニュアンス

一見いいかげんな雑談や情報交換のやりとりを通じて、なんとなくお互いの気心が知れてくる。この「なんとなく」というニュアンスが大事で説得というより聞き上手の構えをつくるのである。

 


そもそも、今、効率主義がよしとされているのは、狩猟民族を祖とした欧米人たちの発想である。今日、獲物が捕れなければ、家族や自分が餓死をすることもあるのだから、これは獲物が逃げる前に、また何者かに奪われてしまうまえに、とにかく最速でしとめなければならない。

そんな彼らにとっては、農民の春に植えて秋の収穫を待つというような、成り行き任せの発想は死を意味する。しかし、逆に、自然環境の変化に身を任すしかない農耕民族の生き方にとっては、「白黒はっきり、何事もきっちり」の効率主義は本来なじまないものなのであ。


曖昧ではあるが自分の目や耳や鼻を信じて、その教えるところに従って行動してみる。すると次第に自分の勘や感覚が生き生きとしてきて、人間が持つ本来の動物的本能のようなものが蘇るのだ。

 

ものづくりには直感が大事。
「これは、なんだかおもしろそうだからやってみようw」くらいの感じでだいじょうぶ。

売り上げや経済的なことを気にするあまり、チャレンジ精神を失えば、それはいずれ衰退していくのだ。

 

「とりあえずやってみる」という拙速主義の効能。
境界の取っ払いがすごい効果を生み出す。湯布院。

 


一直線にスパッと言い切ることがよしとされていて、ただ結論を先に言って、論理を運ぶというスタイルにみんな傾倒しすぎている。


「間」を持つ文化には、語られた言葉以上にさまざまな思いや考えが込められている。
まさに、この「間」の中に、深く広がりを持つ曖昧力があるのだ。

 

「遊び」の余裕がなければ、常に細かい修正の連続になってしまい、運転が極めて困難なものになってしまう。

多少のブレがあることで、舵取りにも余裕が生まれ、安定走行、安全運転ができるのである。

とりあえず保留にする。適宜に処理するという曖昧さが、車の「遊び」と同じで人間関係を円滑に維持するにあたっても必要と言えるのだ。

 

国連にて・・・・・・
「西欧の皆さんには立派なバックがあるが、私はこんな小さな布きれで、地球を包めますよ」と言って
そこにあった大きな地球儀を風呂敷でぴったりと包んでみせて、
会場から驚きと賞賛を受けたという。

それにしても、地球を包み込むなどとは、 なんとも大風呂敷な話である。