江戸時代、「遊ぶ」ということを尊びました。
遊びというのはプラスの概念であって、教養ある人や余裕のある人にしかできない
高尚で粋なものだったわけです。

その過程で失われてしまった「遊び」のゆたかさや、日本人らしい感性のゆくよかさのような部分が、努力を重視しすぎたあまり貧困になってしまったことは否めません。

遊びは脳の栄養。

生きていくために必要なことしかしないというのは、じつに貧困なことではないでしょうか。

努力というのは生きていくために必要なものですが、必要な部分以外にも
リソースを割けるということが豊かであり、清練されている証拠です。

文化、芸術、形而上のもの。
人間らしい部分がリッチであるというのはそういうことです。


人間の脳は機械のようにシンプルで合理的にはできていない。
努力以外の遊びの部分というのは脳にとってエサともいえるのです。


役に立つことしかしない人間は家畜と同じ。
「日々の生活を楽しむ」という遊びの部分を見失わないように。


一見、損しかしないような非合理的な意思決定をするというのは、
人間に独特なもので、高度な機能なのです。


役に立たないことをリッチに。
自ら「役に立つネジになろう」  「役に立つ歯車になろう」と思ってしまう。

限りある人生ですので、そんな努力をして本当に楽しいのだろうか。
と私は思います。

 


本当に難しいのは、役に立たない部分をリッチにしようとする努力です。

 

ワーキングプアだといって嘆いている人たちには特徴があります。それは働いたら
その分だけ誰かから給与としてお金がもらえる、という発想で働いている点です。

 

起業してサービスを自分で提供するという形なら、いくらでも稼ぐことができる。努力のしがいがあるところです。


実際に貧困だというよりも、発想が貧困ではないでしょうか?


構造を壊すのではなく、利用する工夫を。
壊さなくても、現行のルールに沿って、それを利用することで工夫して稼ぐことは可能です。


自分を取り巻く空気の中に存在している暗黙のルールをいち早くつかみ取り、
それを言葉などによって転がすことで多くの人を楽しませ、不満を解消し
だくいんを下げさせ、そこから利益を得るのです。

時代を斬る感覚が鋭く、
言葉の扱いが巧みな人であれば、
おおきな財産を作ることができます。


才能があるかないかというのは、自分が持っている適正を知って、
自分の評価軸を確立できているかどうかということに尽きます。

評価軸は臨機応変に変えるべき。

 


ものを覚えられないというのも、すごく大事なことです。忘れる機能というのは
精神の安定や運動習慣の最適化に関して重要な役割を果たしているということが、
最新の研究で明らかになってきています。

 

適切に忘れられるという才能というのは

嫌な出来事から早く立ち直れるという心の強さを持っているということに
ほかなりません。